ひろゆきは、自転車を辺りに転がして、
川の土手に体育座りをし、膝に顔を埋めた。
キスしてたよ。
ひろこがキスしてた。
おれ以外の男とひろこがキスしてた。
ひろゆきは文章を心の中で膨らませ、
二人のキスのイメージを何度も反復した。
ひどく自虐的な気分になった。
そのとき。
「にゃーーん」
白い猫がひろゆきの近くにやってきた。
「にゃーん」
近くの浮浪者が飼っている猫だ。
この辺の人にエサを貰うことが多いせいか、
人によく慣れている。
ひろゆきは、猫を持ち上げて、胸に抱いた。
目の前を川が無造作に流れていく。
対岸では、野球をやっている。
ここだけみると、今日は何も無かったかのように見える。
ひろゆきは、乳色の空を見上げた。
ひろゆきは、ビートたけしのファンだった。
あのような飄然とした生き方に憧れていた。
「おいら、どこにも居場所がないよ」
ひろゆきは猫を抱きながら言った。
おいら、
というたけしが用いている江戸っ子風の一人称を使ったのは、
これが初めてである。
猫は、ひろゆきを見つめている。
「にゃーん?」
「お前はいいよな・・・自由で。
おいらもお前みたいになりたいよ」
猫は、むずかってひろゆきの胸から飛び出した。
「にゃーん」
土手を下っていく。
ひろゆきは両頬に両手をあてて、川の流れに意識を向けた。
おいら、将来はどうしよう?
ひろゆきは、自問した。
ひろゆきは、河原を歩む猫を見た。
名も知らぬ猫は、さっきまで抱かれていた
ひろゆきのことなどお構いなしに、
いかにも自由そうに伸びを打ち、
叢(くさむら)で戯れ、
身づくろいのために自分の脚の毛を舐めていた。
その姿を見ていると。
ひろゆきの心の中で、突然何かが煥発(かんぱつ)した。
そうだ、どうしようなんて思うこと自体がよくない。
どうにかなるさ。
今、一番楽しいことをやればいい。
ひろゆきは心に決めた。
愛にも頼らない。
カネにも頼らない。
自分の心の思うままに生きよう。
日が暮れてきたようだ。
「にゃーーん」
猫が、ひろゆきの方を見上げている。
「じゃあな。おいら、帰るよ。元気出た。ありがとう」
ひろゆきは、自転車に乗って土手を走った。