私は以後も20万円程度寄付を得、他の役員たちも手分けして100万円程度を集めた。
「230万円集まったわけね」
京子は資料を見て言った。
「30万円余るわね」
慶子が京子をちらりと見た。
「桜子に返す?」
私は、京子と慶子の様子をじっと見守っていた。
京子は、少し硬い表情をしてから言った。
「いいわ、今回は桜子の餞別ということで貰っておきましょう」
桜子は既に転校していた。
桜子のいた書記長の机には、副書記長の藤原英太がいて、太めの体を椅子の上に落ち着かせている。
来年閉校になることは、校長が既に発表していた。
生徒たちは、各々新しい学校に行くために転入試験を受けたり、
また河埜が斡旋した学校への転入手続きを取っていた。
それでも、すぐに転校する学生はあまりいないようだった。
「学園祭を最後に一斉に転校ということになるのかしらね」
京子がぽつりと呟いた。
「京子、あなたの推薦はどうなるの?」
「それは大丈夫。一応卒業までは私この学校にいるし」
「そう……」
展示の方は、各クラス・サークル、クラブからの出し物が出揃い、予算の折衝が始まっていた。
「この30万があれば、みんなにも大盤振る舞いができるでしょう」
京子は資料を脇に抱えて生徒会室を出た。
「少し矢部先生のところに行ってくるわ」
私は少し仕事の時間が空いたので、PC室に行って時間つぶしをすることにした。13号館に歩いていく途中で、生徒たちがベニア板をつかって展示の準備をする姿がちらほらと目立ち始めた。秋の夕方は、すぐ暗くなる。私は少し寒気を感じて、早足になった。
PC室で私は2ちゃんねるを閲覧した。
この前さゆりが言っていた、援助交際をしているという河埜学園の生徒のことが気になった。私は、そのスレッドにリンクが貼られているいくつかの出会い系サイトの名前と、スレッドに書かれていたその生徒のHNをキーにしてGoogleで検索を掛けてみた。
すると、20件くらいがヒットし、私はプロクシを挿してその出会い系サイトをフリーメールのアカウントを用いて探索した。その中の一つに該当すると思われるサイトがあった。
うちの生徒らしい書き込みが残っている。
12334: ちぃBB
東京で今すぐ会える男性のかた、いらっしゃいますか?
↓のメールアドレスまでお願いします。
私はちぃBBのメールアドレスを入手した。
「どうやら携帯電話からだな」
メモしながら私は考えた。
10月のある土曜日、私は都内の私立高校の編入試験を受けた。
入学は来学期からとなる。
私は、試験会場であるその学校へは私服で行ったのだが、受験生の中に河埜の生徒で見覚えのある顔もかなりあった。
その中で私は副会長の佐藤の顔を認めた。
「副会長」
「ああ、荒巻くん」
「妙なところで出くわしたね」
「そうだねへへへ」
佐藤はぬめっとした顔の中に隠れたヘビのような目を向けながらその場の雰囲気のいづらさを誤魔化すように言った。
「試験はどうだった?」
「ああ、できたよ」
佐藤と私は一緒に帰りながら試験の問題やその学校について話した。
「君もここにするの?」
佐藤が尋ねた。
「多分ね。君は?」
「あともう一つ受けてみるよ」
「へえ」
「ここは、ちょっと家から遠いんだ。ここも悪くないけど、もう少し近いところがいいな」
「なるほどね」
セブンイレブンの自動ドアが開いた。中で売っているおでんの湯気が暖かそうに立ち上っている。私は佐藤の方を向いた。
「長谷部さんってさ」
それを聞くと、佐藤は少し眉を顰めたように見えた。
「長谷部先輩が、どうかした?」
「桂先輩のことが好きだったそうだね」
佐藤は一瞬沈黙した。
「……そうだよ」
「去年までのことはよく知らないんだ。生徒委員として外回りが多くて、生徒会室にはいなかった。君はずっと生徒会室の仕事だったから色々知っていると思ってさ」
「……もう過ぎたことだよ」
「そうだね。だが、気になるよ」
私は、沈黙を以って佐藤に圧力を加えた。
佐藤はプレッシャーに負けた。
「……長谷部先輩は、会長、勢堂さん、桂さんをスカウトしたんだけど、前の文化委員長の上原先輩は長谷部先輩と桂さんが付き合っていることに気付いてしまったんだ」
佐藤は私の顔を見た。
「そうだよ。あの二人、つきあってたんだ。男同士で。化学部の先輩後輩ってだけじゃなかったんだよ。上原先輩、二人が抱き合ってキスしているの見ちゃったらしいんだ。上原先輩は長谷部先輩のことが好きだったんだよ」
私は、長谷部先輩の男らしい顔つきを思い出した。
そして桂の悲しそうな大きな目も。
上原栄子の、意志的な強い視線が、あのとき桂を捉えていた。
「女に好きな男取られたならとにかく、よりによって相手は男だもんな。上原先輩そりゃブチ切れるよ」
そこまでは私が既に知っている話だ。
「上原先輩、それまでは桂先輩に目を掛けていたんだぜ。自分が好きな長谷部先輩のお気に入りの後輩だと思ってさ。ところが実は自分の恋敵だったんだからなあ」
佐藤はぬめぬめした笑いを零し、私は少々嫌悪感を覚えた。
私は、去年の文化祭の後片付けのときに起きた騒ぎを思い出した。
焼却炉の前は、文化祭のゴミで一杯だった。
生徒会の役員が次々とゴミを分別、分解し、手際よく焼却炉に投げ込んでいく。
そのとき、騒ぎは起きた。
私は丁度その時クラスの展示のゴミを纏めて持って来たところだった。
「何やってるのよ、トロいわね!!」
当時の文化委員長の上原栄子は、憎しみを込めた目で当時の文化副委員長の桂を睨んだ。
「ぼ、ぼくは……」
桂はおどおどした様子で言った。
次の瞬間、栄子の細い手が舞って乾いた音が鳴り、
桂の頬が赤くなった。
「あんたみたいな……あんたみたいな奴!!」
栄子の顔は憎しみで歪んでいた。
私は、あのときの栄子の表情が忘れられなかった。
「あのとき、会長いや、当時は副会長か。どんなポジションだったの?」
私は佐藤に聞いた。
「二条会長も、長谷部先輩のこと好きだったよ」
佐藤はゆっくりと言った。
「うん、好きだった」
頷きながら言った。
「長谷部先輩の仕事している様子を、じーっと見てたよ、会長は。」
佐藤は遠い目をした。
その姿に、佐藤の何とも言えないやるせなさが滲み出ていた。
「君、もしかして会長のこと」
それを聞くと、佐藤のぬめりとした顔が急に引き締まった。
「何を言うんだよ荒巻」
それから少し肩を落として、小声で言った。
「俺は……あの人に仕えることができればそれでいいのさ」
それから少し上を向いて、目に溜まった何かを落とすまいと必死に我慢している様子を見せた。
「幸せだったよ、京子先輩と一緒に働けて」
本当に京子のことが好きなのだ。
佐藤が急にいい奴に思えてきた。
もしかしたらそれほど悪い奴ではないのかもしれない。
駅に着いた。
私たちは、そこで別れた。
佐藤は、次の日に行われた別の高校の試験に受かり、月曜日から学校を去った。
私は、生徒会の特別規定によって執行委員会で副会長に選出された。
その日最後の授業は体育だった。
私はマラソンを終えて汗を拭きながら運動場の南側にある柔道場の側を通った。
畳が擦れる音が聞こえる。
ちらりと開いている窓から中を覗くと、勢堂がいた。
「よおっ、副会長殿」
勢堂は坊主頭から湯気を出しながら、道着の乱れを直した。
「先輩っ、もう一本お願いします!!」
彼の向こうで、気合に満ちた声でおかっぱの女子部員が稽古をせがんだ。
「ああ、ちょっと待ってろ。雪乃に相手してもらってろ」
そう言ってから勢堂は私の方に振り返った。
「あいつ、結構見所あるんだ。女子部員じゃもう歯が立たないから、男子とやってるんだけどな」
私は汗を拭きながら女子部長と稽古をする生徒を見た。
「まだ1年だし、もうちょっとここで伸ばしてやりたかったな」
勢堂は寂しそうにいった。
「で、何か用か?」
思い出したかのように一瞬の陰鬱から抜け出して勢堂は言った。
「ええと……」
考えてみれば、用などないはずだった。
たまたまここに寄って中を見ただけだ。
だが、言われてみて、私は聞きたいことがあるのに気がついた。
「ちょっといいですか?」
「ああ」
勢堂は柔道着の中の汗をタオルで拭きながら柔道場を出た。
「何だ?」
「会長と長谷部先輩、それから桂先輩の関係についてです」
余計な詮索などしないのが私の身上だったはずなのだが、桜子から事情の一端を聞いてからは、長谷部を巡る人間関係は私の関心の中心を占めるようになっていた。無論、現在自らが生徒会副会長なのだから、以前の生徒会の人的関係について知識を持つのは職務上当然だという正当化は心理防壁として張り巡らしてはある。
「ふむ」
勢堂は、ため息をついて目の前のロッカーを見た。
意志的に見たというより、視線を固定するためのつっかい棒を探してという感じだった。
「どの辺まで知ってるんだ、お前」
鋭い眼光を滲ませて、勢堂は私を見た。
「長谷部前会長と桂文化委員長がつきあっていたというところまでです」
それを聞いて、勢堂はじっと黙り込んでから言った。
「余計な詮索だとは思わんか?」
「そうとも考えましたが、私は現在副会長です。生徒会執行部内の人的関係について一応の知識を有するのは職務上の義務です」
「ふむ、うまい言訳だな」
勢堂は苦く笑い、それから普段とは全く違う繊細な表情を見せた。
「俺は中2のときに長谷部先輩からスカウトされて、会長や桂と一緒に生徒会に入った。初めて生徒会室で桂に会ったときは、長谷部先輩と桂はとても仲が良さそうだったが、化学部の先輩と後輩ということで、あのときは大して不思議ではなかった。」
勢堂はあごをしゃくった。
「帰るときは二人は一緒だったし、とにかくいつも一緒にいたな。だから、俺たちが高2のとき二条が副会長になったときには意外に思ったものだ。桂が副会長になるとばかり思っていたからな。だが、長谷部先輩は自分のお気に入りと政治的後継者を区別する分別は持っていたのさ。」
それを聞いて、私は京子の言葉を思い出した。
「長谷部先輩は私が後任として適任と認めたから私を指名した。私はあなたを適任だと思うから指名する。それだけよ」
あの言葉は、京子が長谷部から言われた言葉を京子が言い直した言葉だったのかもしれない。
「会長は、長谷部先輩と桂委員長のことを知っていたんでしょうか?」
それを聞くと、勢堂は少し話し辛そうな、眩しげな表情を垣間見せた。
「ああ、多分な。上原先輩よりはずっと前に知っていたと思うよ。」
「上原さんはずっと知らなかったんですね?」
「そうさ。上原先輩は長谷部先輩と6年間同じクラスだったんだぜ。それで中1から長谷部先輩に一目惚れだったんだ。生徒会に来たのも長谷部先輩と少しでも長く時間を過ごすためだという専らの噂だったよ。だが、あの人はどうも他人の気持ちに疎いところがあった。去年の文化祭の前に上原先輩が化学室に長谷部先輩を探しに行って、二人の姿を見てしまったとき、どれほどの衝撃だったかは想像に難くないな。あの日、俺はたまたま体育委員会の帰りだった。体育委員長が休んだので俺が議長をしたんだが、生徒会室へ戻っていく途中上原先輩を見てね。鬼みたいな顔をしていたよ。二人を見たすぐ後だったのだろうな。今から考えれば納得が行く。」
そう言いながら、勢堂は少し口の端を上げた。
「いや、怖かった。俺はあれほど女を怖いと思ったことはない。何かオーラが上原先輩から立ち上っていたよ。」
「それから桂先輩へ当り始めた、というわけですか」
「そうだろうな」
そのとき、柔道部の中から女生徒が現れて言った。
「先輩、やっぱり雪乃さんじゃダメみたいですよあの子」
「おっ、そうか。じゃやっぱり俺が稽古をつけてやるか」
そう言って勢堂は私の方に振り向いた。
「そういうわけだ。じゃあな。」
私は一礼して柔道場を去った。
文化祭の前日、私たち生徒会執行役員は前夜祭の準備に追われていた。校内は活気に満ち、昨日までの閉校の沈滞した雰囲気はどこかへ消え去っているかのようだった。
だが、確実に生徒の数は減っていた。
みな転入試験を受けて次々と河埜学園を去っていったからだ。
生徒会役員でも、副会長の佐藤、書記長の桜子が学校を去っていた。
私は副会長に指名され、各委員長たちよりも名目上は上の立場に置かれることになった。
だが。
「副会長、資材が少し足りないんだけど、何とかなる?」
「あ、その書類まだ決裁してないんだけど。会長今いないから副会長決裁でいい?」
「ちょっと副会長、今会長いないから代わりに業者さんに会っておいて」
つまり名目上は彼らよりも上というだけで、実際には便利屋だった。それでも私は力を振り絞ってこの仕事に精励した。
中学から5年間いた学校の最後の思い出になるだろうからだ。
私は副会長席に座り、講堂の設置についての図面と、去年のプログラムを見比べて、とある案件に頭を痛めていた。
すると、私の後ろから声が聞こえた。
「副会長、そこは去年は飛ばしてたよ」
振り返ると、そこには佐藤がいた。
「やあ」
佐藤は、河埜の制服を着ていた。
「どうしたんだい? 戻ってきたのかい?」
佐藤は照れくさそうに笑った。
「ああ……この文化祭の期間だけ手伝うよ。矢部先生も大目に見てくれるってさ。それに、人数足りないんだろ?」
「そうなんだ、頼むよ」
見ると、桜子まで来ている。こちらはジャージ姿だ。
「おす」
「先輩!」
桜子は、あるものを私に渡した。
「クラスでたこ焼き屋やるんだけど、すこし貰ってきたのよ。食べなよ。」
「ありがとうございます」
「私も手伝うよ。だからこんな格好してきたの。」
桜子はジャージ姿で一回転した。
学校のあちこちで、生徒たちの作業の音が聞こえてくる。明日講堂で演奏するバンドの練習の音がクラブのプレハブの方からか、聞こえてくる。学校は、非日常に染まりつつあった。私たちは桜子の持って来たたこ焼きをつまみながら仕事を続けた。
「そろそろ講堂設営班は移動した方が」
私は桂に言った。
「う、うん……」
桂は大きな目をとりとめなく動かしながら言った。
さっき戻って来た京子は、私たちに目もくれず書類の山に埋もれて作業し、携帯電話であちこちに指示を与えている。
「おい牧田、中3率いて椅子出しやっといて。井出さんはもうあっち行ってるみたいだ。」
私は新生徒副委員長である牧田秀雄に命じた。
辺りはいよいよあわただしくなってきた。
私は7号館をぶらぶらと歩いてみた。中学生のクラスが入っている建物である。様々な展示や模擬店の準備が行われ、外から様々な資材が運び込まれて、教室は普段とは全く異なる様相を呈している。生徒たちは喧騒の中で設営に余念が無かった。私がとある天文についての展示を見ようと中2の教室を覗こうとしたときだった。
「あっ」
私の胸に、少女がぶつかった。
「す、すいません!」
少女は後ろを振り向きながら外に行こうとしていたのだ。
「いや、こちらこそ。少し面白そうな展示だったから、覗いて見ようかなと思ったのさ。」
その少女は、人なつこそうな眼と、肩まで伸びた艶やかな黒髪の持ち主だった。匂い立つような稚気が私の印象に残った。
少女は、私の顔に気付いて驚きの声を上げた。
私の顔を、目を大きくしてじっと見ている。
「荒巻先輩」
私はその少女の顔に少し見覚えがあった。
「ん?」
「先輩、生徒副委員長でしたよね? 私もこの前から生徒委員なんですよ」
そうだ。生徒委員会で見たことがあったのだ。彼女の場合も、同級生が転校してそれを襲って就任したというわけだろう。
「そうか、だが私は今は生徒会の副会長になって、副委員長は別の人がやっているよ。」
「出世されたんですね。おめでとうございます」
少女はぺこりとお辞儀した。
消えゆく学園の生徒会副会長か。
考えてみるとシュールで皮肉なポストといえるかもしれない。だが、少女の真情は私にとってそれほど不愉快なものではなかった。
「ありがとう。君は確か……」
「あ、小島です。小島美沙」
美沙はにこりと笑った。えくぼができている。
「ちょっと資材もらってくるんで、失礼します先輩」
美沙は一礼してからたたたと小走りに走り去った。
私は中の展示を見ようとも思ったが、美沙の同級生、特に女子生徒たちの意味ありげな微笑みの輪に圧倒され、早々に教室を出た。
7号館を出たとき、携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「もしもしじゃないわよ。ちょっと暗幕の件どうなってるの?」
京子だった。
私はその事情について説明し、京子の了解を得た。
「わかったわ。それにしても、あなたには電話番号を教えてなかったわね。今掛けている番号も井出くんから聞いたのよ。あと、メールも送っておくわ。私の電話番号とメールアドレスも登録しておいてね。でないと連絡に不便だから」
そういえば、今まで私は京子の携帯電話番号もメールアドレスも知らなかった。今までは単なる下役だったのだから、特に必要もなかったが、副会長ともなるとそうはいかないだろう。事実、今のような修羅場には各上級役員の携帯電話番号やメールアドレスは必須の情報だ。
私は嘗ての上役の井出の携帯電話番号とメールアドレスしか知らなかった。
午後8時。
校庭の一角での前夜祭のイベントも終り、一般生徒は帰り支度を始めた。だが我々役員はそうはいかない。一部の生徒もまだ設営の仕事が残っている。既に夕方のうちに明日以後の騒擾に目を瞑ってもらうために周辺の住宅への訪問は終えてある。それでも訪問したときに家人がいなかった家もあり、その分について私たちは分担して訪問した。
午前0時。
ようやく文化祭の設営が終わった。だが、毎年役員は慣習として居残り、学校に泊まることが認められている。もっとも、一般生徒の中にも部室に隠れたりしてなんとか学校で一夜を明かそうと目論む者も多い。そしてこの日ばかりは学校のお目こぼしもある。だが、破目を外しすぎる者がいないよう、結局我々役員が見回りをしなければならない。
井出と勢堂、それから桂は既に柔道場で仮眠を取っている。彼らは今日最も働いた者たちだ。疲れているだろうし、明日も今日以上に働かなければならない。女子の役員で慶子のように帰った者もいるが、京子はどうやら生徒会室でずっと起きているようだ。徹夜は好きだという話だが、どうせ仮眠を取るのだろう。 私と2年生で文化副委員長の室生さゆりと、副書記長の藤原英太を引き連れ、生徒会の腕章をつけて校内の巡回に出発した。出発するとき、佐藤と桜子が生徒会室に残っていた。
「真っ暗な学校っていうのも、ちょっと雰囲気あっていいわね。」
さゆりが少し興奮して言った。
今日はずっと働き通しのはずだが、さゆりはかなり元気なようだ。
見慣れた校舎や講堂も、ゴミの焼却炉さえ闇の中では果てしなく不気味な佇まいを見せている。それに、11月の夜はかなり冷える。私もマフラーを掛けているし、さゆりも制服のコートを着ている。英太は太っているせいかあまり寒さは気にならないようだ。
私たちは中学生のクラスが入っている7号館に入った。各教室を見回る。見回りをしているうちにこっそり隠れている生徒に出くわす場合もある。タバコや酒をやっている以外は、ほとんどの場合は見逃す。やっていた場合はどうするか? ここだけの話だが、これも一応の注意だけをして見逃す。それが伝統なのだ。
だが、正体なく酔っ払っている者だけは捕らえて水道の水で酔いを覚まさせる。さっきも、10号館にある高1のクラスの近くで女子が一人階段を完全に酔いながら歩いていたので、不本意だが私たちは彼女にたっぷりと水を飲ませた。
また、時たま生徒のカップルがキスをしている場面にも出くわす。セックスをしていない限りは大目に見る。
私は、少し前に美沙と出会った教室に入った。
電気をつける。
展示のためのベニヤ板の仕切りの向こうに、何か気配を感じた。私はそちらの方へ進んでみた。
「おっ……」
「へへぇ」
美沙が、数人のクラスメートとそこにいた。
「仕方ないなぁ……居残り組か」
女子が3人に男子が2人だ。
「先輩、大目に見てくださいよ。ねっ?」
美沙が私に手を合わせた。
「お前生徒委員だろうが……」
私は苦笑した。
「どうしたの?」
そのとき、手分けして見回りをしていたさゆりが入ってきた。
「あっ、隠れてたのね」
「すいませんっ!」
美沙がぺこりと頭を下げた。
どうやら、8時に帰ったふりをして戻ってきたようだ。
「もう終電だってないしなあ……」
私は時計を見た。
「わかった、大目に見るから、女の子だけ没収。男は好きにしてろ。だがあまり派手に動くな。眠くなったら柔道場に行け。」
性差別的かもしれないが、流石に女子を、それも中学生をこんなところに置いていくわけにはいかない。10時の見回りをなんとか掻い潜ってきたのだから、まあ根性を買って大目に見るとしても、彼女たちに寝床は与えるべきだった。
「女子は、生徒会室の近くの教室に布団が置いてあるから、そこで寝ろよ。見張りもいる。」
女子の生徒会役員が寝るために、そこには布団がいくつか置いてある。だが、寝袋を持って来ている者もいるので、余りがないわけではない。教室の前には交代で女子の見張りをつけることになっている。
「はーい」
少女たちはつまらなそうな顔をして私たちに従った。
だが、目を輝かせていた美沙の「はーい」の声のトーンは他の2人のそれと違っていた。
教室を出て、私たちの一番後ろを歩いていた美沙は、暗闇の中で私の手を掴んだ。
積極的な子だ。
私は、暗闇の中でそっとその手を握り返した。
私は、そ知らぬ風を見せて私の隣を静かに歩く美沙に、奇妙な愛おしさを覚えた。
想いとは、こうして受け継がれていくのかもしれない。後輩から先輩へ、そしてその先輩へ。逆に先輩から後輩へ。そしてその後輩へ。
私は、この学校で受け継がれてきた「想い」の最終走者になりつつある自分の姿に少し感傷的になった。
結局美沙たちは友達の家に泊まったということになっているようだ。去年は1年生でまだそんな冒険はできなかったが、今年は是非校内で一晩過ごしてみたかったらしい。
「しようがないな」
私は美沙を見た。
「先輩は中学生のときは教室に泊まったりしたんですか?」
「いや、それはないね。ただ、私は前に写真部にいたのだが、その暗室に隠れていたよ。」
「そっかあ、暗室ね」
うんうん、とばかりに美沙は頷いた。
写真部。暗闇の中に浮かぶクラブのプレハブが私たちの手前に見えた。その佇まいに私は懐かしさを覚えた。テニス部は故障もあって中2の夏で辞めてしまった。その後、友達に誘われて写真部に入った。あの部室の後ろにある壁を乗り越えて、コンビニに食べ物を買いに行ったものだ。壁の近くによく猫が何匹か屯していて、帰りにパンのかけらを少しやったことがある。猫たちは生徒たちから食べ物を貰い慣れているせいか、私たちを怖がるでもなく、逆に感謝するでもなく、当たり前だという顔をして食べていた。
だが、写真部を辞めてあの部室に出入りしなくなってからは猫たちともご無沙汰だ。
フリージアの写真を撮った次の日、その黄色い花が枯れていたことがあった。私は、散った花びらの前で、前の日撮影した写真の美しさを見て、あることに気がついた。私はあのとき花をカメラ越しに見るだけで、あまり直接あの花と対峙することはなかったのではないかということだ。随分と勿体ないことをしていたのではないだろうか。
私が写真に前ほどの興味を覚えなくなったのは、カメラを通して物を見るよりも、直接物を見た方がいいのではないかと思うようになったからだ。また、感動の再現ということにも、疑いを覚えるようになった。一期一会という言葉がある。私は対象との遭遇と認識は一種の一回限りの出来事だと考えている。それを記録に取って繰り返して見るのは、後で見ることができるからといってその場の感動を疎かにしているということであり、あまりいいことだとは思わなくなったのだ。
美沙と友人の2人の女子生徒を寝室に連れて行った私は、見張りをしている高1の女子の生徒委員に挨拶して生徒会室に向かった。ふと振り向くと、ドアのところから美沙がこちらを向いてこっそり手を振っている。私は微かに笑って美沙に手を振った。
私は柔道場で眼を覚ました。
「おい、副会長起きろよ。」
生徒委員長の井出が私を揺さぶった。
昨日早めに寝た井出はもう起きて作業の指揮を開始しているようだ。
「あ、おはようございます先輩」
「今やお前は位階上は俺の上司なのだから敬語は不要さ」
皮肉を少し交えながら井出は他の役員や生徒たちを起こした。
私は柔道場の神棚の近くに掛けてある30年は動いているという時計を見た。近所の時計店から買ったという話だ。
現在午前6時。
始発で来る学生たちが既に到着しているころだろう。
今日は学園祭初日。
河埜学園最後の学園祭の初日だ。
顔を洗って校庭の方に行くと、もうかなり多くの生徒がやってきて作業を開始していた。校門のところの立て看板や折り紙でつくった飾りが次々と仕上げられていく。
各クラスごとの色とりどりのトレーナーを着た生徒たちが、屋外の模擬店のボンベや材料を運んでいく。
その一つ一つの光景が、私にとってはとても印象深いものだった。
空は乳白色の雲が覆っていた。
天気予報によると、今日一日曇りらしい。
午前8時。講堂で開会式が開かれた。校長の挨拶、生徒会長挨拶、そして幾つかの出し物。ピアノとバイオリンの演奏。
私は講堂での業務は文化委員長の桂と生徒委員長の井出に任せ、生徒会室に陣取った。
「えっ、校門? パンフレットが足りない? わかった、日下部に持っていかせるから。とりあえず100部な。」
次から次へと決裁を下していかなければならない。
「校庭ライブなんだけど、アンプ頼んでいたのどこだっけ?」
さゆりが部屋のドアノブに手をかけながら言った。
「ああ、大迫先生のところだよ」
私は携帯電話で話しながら言った。
あたりは役員や生徒でごった返している。
「会長はまだ来ないのかな」
私は窓から講堂の方を見た。
「すいません、栄歌高校の生徒会の方が来ていますが」
中3で文化委員の市川陽子が校門の仮設テントから電話してきた。
これは会長が応対しなければ駄目だろう。
だが、今京子は講堂で出し物を見ているはずだ。
招待したピアニストの演奏までは見なければならない。
私は仕方なく京子にメールを打つことにした。
その後、私は立ち上がってコーヒーを淹れ、それをゆっくりと飲み干しながら講堂を見た。
ドアのところに、美沙がひょっこりと顔を出した。
「何だい?」
私は書類を整理しながら、彼女に顔を向けた。
「何かお手伝いできること、ありますか?」
「クラスの方は、いいのかい?」
「はい、何とか。」
美沙は、明朗な表情を浮かべて喧騒渦巻く生徒会室に入ってきた。
「よし、では仕事をしてもらおうかな。」
私は美沙にテーブルのところに置いてあるパンフレットの束を指差した。
「それを校門の仮設テントに持って行って。」
「はい!」
「あと分らないことは、ここの人たちに聞いていい。」
私がそう言ったとき、さゆりが生徒会室に入ってきた。
「あら、あなた昨日の」
そう言って美沙を見てから、私を極めて意味ありげにじっと見据えた。
「荒巻くんって」
少し上目遣いで。
「年下好きなんだぁ。」
トーンを落とした声で最後は抑揚を上げ、捻って下から上に叩き込むように。
「それはセクハラだよ文化副委員長。」
私は立ち上がってこの場を立ち去ることにした。
「この子に色々教えてやってくれ。生徒会の仕事をやりたいみたいだから。」
私はさゆりに美沙を指差した。
「よろしくお願いします、先輩」
美沙は確かに一礼した。
だが、美沙とさゆりの間にいきなり妙な電磁場が生じるのを、生徒会室から去りながら私は背中で感じていた。
「どうせ今年で生徒会も終りなんだから、せいぜい仲良くやってくれよ。」
私はそう呟いて階段を降りた。
私は朝食を食べることにした。
教室の模擬店で済ませることにする。
高1の教室で蕎麦屋をやっている店に入った。
「いらっしゃいませぇ」
1-Bというクラス名が入った赤いトレーナーと黄色のエプロンをつけた、短髪の女子生徒の堂に入った声が聞こえてきた。コンビニかファストフードでアルバイトでもしているのだろうか。教室の中には、様々な色の画用紙に蕎麦の値段が書いてあるのが貼ってある。奥の方に間仕切りが作られ、その向こうが厨房になっているようだ。
私はその間仕切りの近くの並びの席に華奢な桂が美味そうに蕎麦を手繰っているのを見つけた。桂は蕎麦が好きで、よく駅前の蕎麦屋で学校の帰りに蕎麦を食べているところを見られている。
「相変わらず、蕎麦が好きですね桂先輩。」
私は、桂の隣に腰を下ろした。
「荒巻くん」
桂は驚いて私の方を見た。
「ここは、美味いですか?」
「うん、まあまあ」
桂は、大きな哀しそうな目を蕎麦の方に向けた。
蒸篭から蕎麦を汁椀に入れ、それを中々見事な手さばきで口に運び、美味そうな音を立ててするすると飲み込んでいく。
私はその姿に思わず唾を飲み込み、近寄ってきた先ほどの女子生徒に桂と同じものを頼んだ。
「講堂の方は、どうですか?」
「もうそろそろピアノ演奏が終わるんじゃないかな。会長も、もうすぐ戻ってくるよ。」
蕎麦が運ばれて来て、私も手繰り始めた。
「ねえ」
桂が私の方を向いた。
「勢堂くんに聞いたけど、最近僕のことを聞いたんだって?」
少しおどおどしているようだ。
まるで少女のように怯えている桂の姿と、長谷部と桂の関係を思い出し、私は心の深いところで歯車がカチリと合わさるような、妙な納得をした。
「先輩、その話は食べてから外でしましょう。」
私は、ゆっくりと蕎麦を手繰った。
結構、いけるようだ。
桂が、屋上の金網に手を掛けている。
「今日、長谷部先輩が来るんだ」
「そうですか」
私は桂を見た。
「その……今でも続いてるんですか? お二人は?」
「か、関係ないだろ君には」
桂は顔を真っ赤にして私の方を振り向いた。
それから黙って下を向いた。
「時たま、会ってる。」
それから顔を上げて言った。
「僕と先輩のことは秘密だよ。絶対誰にも言わないでくれよ」
私は頷いた。
確かに少数の者にしか知られていないようだ。だが不思議なことがあった。前文化委員長の上原栄子は、これを他人に漏らさなかったのだろうか。私はそれを聞いてみた。
「ううん。」
桂は首を振った。
「あの人は、長谷部先輩が好きだから。」
なるほど、結局桂のことを暴露すれば長谷部のことも漏れてしまうわけだ。
「上原先輩は、よっぽど長谷部先輩のことが好きだったみたいですね。」
私は、言いながら桂の反応を確かめた。
「ぼく、あの人のこと嫌いじゃないんだ。生徒会に入ったとき、長谷部さんの次に優しくしてくれて面倒を見てくれたんだ。ぼく、お姉さんが小さいときに死んだんだけど、本当にお姉さんみたいだった。それが……」
そう言って桂は哀しそうな目を更に哀しそうにした。
「でも長谷部先輩の方がずっと好きなんだ」
桂は、顔を赤らめ、か細い声で絞り出すように言った。
長谷部は現役で東大に入っているはずだ。だが栄子は?
「上原先輩は、やっぱり東大受けて落ちたよ。今年も受けるみたい。長谷部先輩と同じ学部を。」
「連絡を取っているんですか?」
「まさか。上原先輩がしょっちゅう長谷部先輩のところに電話を掛けてくるんだよ。」
「ほう……」
栄子の方は長谷部に未練たらたらのようだ。
乳白色の空に、カラスが何羽か舞って、ビル街の方へ飛んでいく。カラスの航跡が曲線から直線に、そして点になっていくのを見て、私はふと不吉な予感を抱いた。
「もしかして……上原先輩も今日来るんでしょうか?」
それを聞くと、桂はぴくり、と鞭で打たれたように震えた。
「そんな……。どうだろう……。」
桂は俯いてコンクリートの床を見つめた。
「上原先輩、入学したその日に長谷部先輩のことが好きになったって言ってた。それから今まで足掛け七年間、ずっと長谷部先輩のことが好きだったんだって。ぼ……ぼくのこと泥棒猫だって……ひどいよ」
そう言ってから、突然こころに溜まっていたものが溢れ出してきたのか、桂は金網に顔を当てて声を殺して泣き始めた。
私は栄子が桂につけたこころの傷跡を見たような思いがした。
そして長谷部と桂が栄子につけた傷の深さも。
「最近も時たま無言電話が来るんだ。」
「それは……尋常ではないですね。上原先輩の仕業でしょうか?」
「さあ……」
「長谷部先輩は何と?」
「黙っていろって。何かあって上原先輩の機嫌を損ねても大変だって。」
確かにそれが賢明かもしれない。
校庭にはもう校外の客が大勢入って来ている。今年が最後の学園祭だということを知ってのことだろうか。
涙を拭いた桂が校庭ライブの方を監督しに行って別れた後、私は生徒会室の方に向かっていた。
雲の切れ目に青空が見えてきた。
晴れるかもしれない。
「こんにちは、アニメ同好会の展示、3号館の1階でやってまーす!」
アニメのキャラクターのコスプレをした女子生徒がアニメ声で客寄せをしながら配っていたパンフレットを受け取ったとき、私は彼女の向こうにとある人物を認めた。
「柳川さん」
それは私が寄付を求めて訪ねたことのある生徒会のOBだった。見ると、女性を連れている。
「おお、久しぶり。」
丸い顔をした柳川は、隣のすらりとした女性を紹介した。
「妻だ。」
これがあの女性教師を問責した如月元副会長か。
「よろしくお願いします。今は副会長を務めている荒巻といいます。先輩にはこの前の寄付の件でお世話になり、大変助かりました。」
私は一礼して彼女の顔を見た。
見るとあまりキツい女性には見えないが。
「よろしくお願いします。まあ、私も副会長だったのよ。知ってる?」
「は、柳川先輩からお話がありました。」
「今校長はどこにいらっしゃるかな?」
柳川が尋ねた。
「そうですね、現在は校長室の方にいらっしゃると思います。何か御用でしょうか?」
「ああ、ちょっとお金のことでね。君は生徒会の役員だし、話してもいいだろうが、私たちや他のOBたちと語らって、河埜を助けようかという話が持ち上がっているのさ。」
それを聞いて、私の心中の靄が段々と透明になっていくような気がした。
「本当ですか? ではうちの学校は助かるのですか?」
「いや、まだ詰めてみないとわからない。銀行との折衝もあるし。今は何にせよ、不景気だし、銀行も体力が相当弱っている。河埜を切ろうとしたのも、株が暴落して河埜の資産価値が減ったからなんだ。また株が上がり、そして河埜の経営体制が変われば、銀行も見放すことはないよ。」
「なるほど……」
私は頷いた。
「これも君がうちの会社に来て、寄付を持ちかけてきてくれたから立ち上がった話なんだよ。そういう意味では、君にも感謝しているんだ。」
柳川は笑みを浮かべて言った。
「とんでもない、私などは」
私は恐縮して頭を下げた。
「ところで、後で生徒会にも寄らせてもらうよ。」
「はい、わかりました。役員総出でお出迎えいたします。」
私は再び頭を下げて二人と別れた。
私が生徒会室の前に行く途中、水道の蛇口が並ぶ水道台で桜子がジャージ姿のまま歯磨きをしていた。
「あ、荒巻くんおはよー」
昨日も一生懸命働いていたせいか、寝過ごしたのだろうか。
「うん、ちょっと寝過ごしちゃったよははは」
私は桜子に、さっき聞いた柳川の件を話した。
「本当なの?」
桜子は目を丸くして驚いた。
「だったら……」
桜子は声のトーンを一旦落とした。
「だったら私今日からここの生徒になるよ。パパに言えばすぐだし。あと……」
そう言って桜子はコップの水の残りを流しに捨てながら言った。
「パパに言って、その援助の話に参加するように言ってみるよ。自分ひとりならやらないだろうけど、何人かそういう人がいるんだったらパパも参加するんじゃないかな。」
「先輩のお父さんはお金持ちですからね。」
それを聞いて、桜子は少し暗い表情を滲ませた。
「お金もちったっていい事ばかりじゃないよ。成金だし。」
「そうですか?」
「パパなんて愛人何人もつくってママ泣かせてるし。私なんて小さいころパパの仕事のせいで誘拐されたんだから。」
もしかしたら聞いてはいけない話だったのかもしれない。
「すいません、お気に触ることを言ってしまったようです。」
それを聞いて、桜子は苦い笑いを浮かべて首を振った。
「そんなことないよ。荒巻くんはやさしーなあ。」
そう言ってから、一旦桜子はおし黙った。
それから、さっきまでとは少し違う静かなトーンで話し始めた。
「私が小学校3年のころ、パパの会社からお金を借りた人が会社を倒産させちゃって、その腹いせに私を学校帰りに誘拐したんだ。私が友達と学校を出たとき、とても怖い顔をした背の低いおじさんが私を捕まえて車の中に押し込んで、いきなり車を急発進させたんだよ。私はダッシュボードに頭ぶつけて、痛かったなあ。今から考えるととても怖かったけど、あのときは怖いとか考えるヒマなかった。なに? 何が起きたの? っていう感じでさ。」
「ほう」
私は注意深く桜子の話を聞いた。前に持っていた桜子のイメージは、私の中では最近かなり変わっていた。苦労知らずのお金持ちのお嬢さんという感じではなく、むしろ心の中に色々なこころの襞(ひだ)をもった繊細な女性というイメージが強くなってきたのだ。
「私はそのおじさんが経営していた廃工場に連れていかれたわ。そしてパパがどれだけ悪どいことをしてカネを巻き上げたか延々と聞かされた。それから私を人質にしてカネを取り返すってこともね。
でも間抜けね、そのおじさん。
私の友達が車の形とナンバーを覚えていたんで、あっさり捕まっちゃった。3時間もしたら警察が来てすぐ助かったわ。」
桜子は歯ブラシを洗いながら言った。
「前は結構お小遣いとか厳しかったけど、あの時以来、パパは私の言うことなら何でも聞いてくれたし、何でも買ってくれるようになった。だから、今ではあの事件があって良かったんじゃないかと思うこともあるわ。」
そこまで言って、桜子は何かに気付いたように唇の辺りに指を置き、目を閉じて辛そうな表情を見せた。
「でも、怖かった。あの3時間。」
そう言って、手を十字にして両肩を掴み、顔をその中に埋めた。水道の水が流れる音がしばらく続いた。
「不思議ね。なんでこんなこと荒巻くんに話してるんだろ、私。今まで学校の誰にも話したことが無かったのに」
蛇口を締めながら少し力のない笑い顔を浮かべながら桜子は言った。
「あなた、やっぱり変な雰囲気があるんだわ、きっと。ひとが秘密を話したくなるような。私も話しちゃったよ。」
「雰囲気……。そうでしょうか?」
私は返答に困って言った。
「うん。あるよ、雰囲気。でも良かった。何か言ってすごく楽になったわ。ありがと。」
桜子は、タオルで顔を拭きながら言った。
「あ、援助の件はパパに言っておくよ。パパは私の言いなりだし。」
「そうですか、お願いします。」
私は右手を差し出した。
桜子はその手を少し見ていたが、やがてそれを握り、
「うん」
と言って明るい表情を浮かべた。