私は生徒会室に行き、栄歌高校の生徒会長たちの応接を終えたばかりの京子に柳川のことを話した。
彼女も目を輝かせ、嬉しそうに言った。
「本当? じゃあ柳川先輩がいらしたらご挨拶するわ。」
私は更に長谷部先輩が来るという話もした。
「えっ」
京子の目は大きく見開かれた。
「そう」
少し頬を赤くしている。こんな京子は初めて見た。つまり、京子が女であることを意識させる部分をだ。
「桂くんから聞いたの?」
「ええ」
それを聞くと、京子は少し俯いた。
「そう」
こんどの「そう」は少し寂しそうだった。
午後1時。
ミス河埜コンテストが講堂で始まろうとしている。会長の京子と会計委員長の慶子は、私たちが講堂に移動する前、生徒会室で明らかに嫌そうな顔をしていた。女性蔑視だと二人は何度も事前の執行委員会で発言したが、桂を除いた男性委員全員の強硬な開催意見と桜子やさゆりと言った女子役員の裏切りもあって、結局開催されることになったのだ。
ちなみに桂は中立だった。
私は開催には賛成意見を述べた。長年続いたものを、最後の学園祭に無くしても無意味ではないかというのが理由だ。
「結局荒巻くんも男ってことね」
そう言ったときの京子の目は果てしなく冷たかったが、水着コンテストを無しにするという私が出した妥協案で何とか京子は開催を承諾した。勢堂や下岡たちは明らかに不満そうな顔だったが、彼らに審査員の座を与えることで丸く収めることができた。
講堂には、既に予選を勝ち抜いた10人が立ち並び、見物の者も校内・校外を含め他のいずれの出し物よりも集まっていた。
審査員席には、委員長に文化委員長の桂、それになぜか体育委員長の勢堂と体育副委員長の下岡が満面の笑みを浮かべて座っている。更に桜子とさゆりが座り、私も末席を汚している。京子と慶子は生徒会室に残って指揮を執ることになった。本来ならば毎年生徒会長が審査委員長を務めるのだが。
この行事の前に、桜子とさゆりにミスコンは女性蔑視と思わないのかと聞いたことがある。二人はたまたま生徒会室で近くにあるマクドナルドで買ったハンバーガーを夕食に食べていたが、きょとんとした顔をして言った。
「全然。私、可愛い女の子好きだもの」
桜子は何を言っているんだという顔をして言った。
「そうそう。あのね荒巻くん、女の子のことを一番見ているのは、女の子なんだよ。」
さゆりも偉そうに頷きながら言った。
さゆりも結構可愛いのだが、流石にそのようなことは面と向かって言うことはできなかった。
番号札をつけた女子生徒が、次々と自己アピールをしていく。
「あ」
私は9番の番号札をつけた女子生徒を見て愕然とした。
「美沙」
「なんだ、知り合いか」
勢堂が私の方を向いていった。美沙が生徒会室にいたときには、勢堂は別の場所で指揮を執っていたので美沙に会ってないのだ。
「先輩、先輩、こいつあの子と昨日からいきなりあっちっちなんですぜ」
さゆりがいかにも汚らわしいという感じで勢堂に耳打ちしてチクリを入れた。それもわざわざ私によく聞こえる声でだ。
「美沙、ですって」
更に、さゆりが私の方を向いて揶揄した。
「呼び捨てだわっ」
桜子も笑いながら言った。
「隅に置けんなあ」
勢堂はわざとらしく首を振った。
私は冷静さを装い、
「先輩、審査に集中しましょう。副会長命令ですよ」
と冗談とも本気ともつかない口調で言った。
勢堂はにやりとして前を向き、審査に戻った。
自己アピールの後、歌を歌わせたり特技を披露させる。美沙は歌を歌った。
「あ……あの子歌上手いわ」
桜子が目を丸くして私の方を向いた。
確かに美沙の歌は傑出して上手かった。
声量といい、表現力といい、とても中学2年生には思えなかった。
講堂の2階から照らされた照明に映え、美沙は私が見ていた美沙とは別人になっていた。ステージを支配し、観客席を圧倒するカリスマに変わっていた。
ほんの3分程度の歌にも関わらず、全力で歌った美沙は心持顔を上気させ、セーラー服姿で頭を下げた。
会場からは期せずして拍手とアンコールが巻き起こった。
結局、美沙は準ミスに選ばれた。中2で準ミスに選ばれたのは、河埜学園の学園祭史上最年少だ。
美沙は文化委員長の桂から表彰を受け、壇上で飛び跳ねて喜んだ。だが、その後がいけなかった。
「荒巻せんぱーい! ありがとうございます!!」
そう言って彼女は私に手を大きく振り、ペコリと頭を下げた。
周囲の温度が一瞬下がり、私は他の委員たちの冷たい視線を背中に感じた。私は表面上は表情を動かさなかった。だが、心の中でバカヤローと叫びながら、頭の芯に熱さと冷たさを同時に感じていた。
コンテスト終了後、どよめきが続く中、私が書類を纏めて帰ろうとすると美沙が寄って来た。
「先輩、本当にありがとうございました!」
私は苦笑しながら言った。
「いや、君の歌が良かったのさ。とても上手かったよ。」
「ありがとうございます。」
「何かレッスンでも受けていたのかい?」
それを聞いて、美沙はやや俯いた。
「はぁ……」
「ああ、やはりそうなのか。」
「はい、声楽の方なんですけど。」
「クラブも声楽だっけ?」
「いえ、違います。家でその手のレッスンに行かされていたんです。」
「ふーん、芸術一家とかかい?」
「はい……でも本当は一緒に通っていたお姉ちゃんの方が上手かったんですよ。でもお姉ちゃんは……」
そこまで聞いたとき、さゆりが大声で言った。
「荒巻くん、柳川先輩たちが生徒会室に来てるって!」
そう言えばそうだった。挨拶をしなければならない。
「あ、ごめん小島。またな」
私はそう言って走りだした。
途中、さゆりと並んで生徒会室の方に急いでいるとき、ふと小さなぼそりとした声が聞こえた。
「裏切者」
私が声の主の方を向いて、
「何? どうしたの?」
と尋ねると、さゆりは
「別に」
と言って少し目を逸らした。
私たちは柳川夫妻を歓迎して送り出した後、再び各々の仕事に戻った。何にせよ、学校再建の可能性が出てきたことで皆新たなやる気が生まれてきているようだった。
午後5時になった。空はかなり暮れてきた。初日はこれで終りになる。外来の客が、次々と校門から去っていく。晩秋の風が、ひどく冷たい。私は、あらかじめ美沙やその他の中学生の委員たちに講堂の片付けをするように言っておいたが、それを監督するために、講堂近くの茂みまで来たときだった。
「おや。」
一瞬、講堂から漏れた照明の光が照らし、桂が、背の高い若者と講堂の裏手に向かっていくのが見えた。
「あれは……」
そう、前生徒会長の長谷部だ。
私は、彼らの後を追った。
そのとき、
「あっ!」
という声が彼らの向かった先から聞こえて来た。
壁を曲がったところに見えた光景は、堂々と立つ背が高く逞しい長谷部、そしてその後ろに隠れる華奢な桂、さらに長谷部の前に思いつめた表情で立つ前文化委員長の上原栄子の姿だった。
「よくも……」
栄子の目には、去年私が焼却炉で見たあの狂気と怒気が宿っていた。
私は、栄子が両手に持っているナイフに気が付いた。
「先輩、やめてください。」
私は静かな声で上原に言った。
「あんたには関係ないでしょ!! でしゃばるんじゃないわよ!」
私は栄子の迫力に一瞬たじろいだが、言うべきことは言わねばならなかった。
「いえ、あります。私は現在生徒会の副会長です。そして上原先輩、あなたは前の文化委員長だったはずです。去年の学園祭は、あなたが指揮をして行われたのではないですか。それなのに、あなたは今年の文化祭を滅茶苦茶にするつもりなんですか?」
それを聞いて、栄子は微かに震えた。
「それだけではありません。現在、先輩たちの働きかけで、この学校は助かろうとしています。上原先輩、あなたの行いで、それがダメになってしまうかもしれません。殺傷事件が起きるような学校に、銀行はお金を貸しませんよ。」
私はできる限り冷静な声で言った。
その時だった。
「おねえちゃん!!」
美沙が、講堂の裏口から出てきた。
「どういうことだい?」
彼女の言葉をいぶかしみ、私は美沙に聞いた。
「……お姉ちゃんなんです。パパとママが前に離婚して、苗字は違うけど……」
栄子は、ナイフを落とし、泣き始めた。
長谷部は素早くナイフを取り上げた。
「おねえちゃん……」
美沙は、嗚咽する栄子の肩に手を置いた。
長谷部は、英気の満ちたきびきびした声を見せて言った。
「ありがとう。よく言ってくれた。」
私は一礼した。
「いえ、大したことではありません。」
長谷部は、一瞬押し黙ってから、栄子を見た。
「栄子。今日は俺がお前を送る。」
それを聞いて、栄子は目を見開いてから、小さく頷いた。
先ほどの狂気はすっかり消えていた。
長谷部は、桂を振り向いて言った。
「またな。今日は彼女を送っていく。」
「はい。」
桂は、長谷部にうっとりした表情を見せながら頷いた。
私は改めて長谷部のカリスマ性に驚きを覚えた。
一瞬で誰もが威服してしまうのは、生まれつきの才能なのだろうか。この種の力は、京子にも、他のどの生徒会役員にもないものだった。
私は一礼して長谷部と栄子を見送った。
桂は頬を赤らめながら長谷部を見ている。
私は長谷部が来ると言ったときの京子の姿を思い出し、なぜか微かに嫉妬を覚えた。
事態としては、今回はこれで収まった。だが、長谷部の魅力と、長谷部の桂への好意がある限り、問題は先送りされただけだ。
私は、彼ら3人が積み上げて来た歴史の中で、ほんの端役を演じたに過ぎないのを自覚していた。人は万能ではない。
とりあえず、歴代日誌には書けないことがまた起きた、ということだ。
「上原先輩、受験勉強うまくいってないみたいなんだ。」
桂がぼそりと言った。
「えっ」
「長谷部さんが言ってた。だから、むしゃくしゃしただけなんだよ、きっと。ぼく上原先輩のこと、悪く思ってないよ。」
私は桂の横顔を見直した。
「長谷部先輩と上原先輩が一緒に帰りましたが、心配ではないのですか?」
我ながら余計なことを聞いたと思ったが、答えはあっさり返ってきた。
「ううん。だって信じてるもの、長谷部先輩のこと。」
桂はそう言って、普段の臆病そうな表情とはかけ離れた、自信に満ちた表情を浮かべた。私はその表情を見て、栄子が二人の間に割り込み長谷部の好意を勝ち取ることは永久に不可能だと確信した。
それにしても。
私も、口数が多くなったものだ。
ふと苦笑した。
「じゃ、ぼくまだ仕事があるから。」
そう言って桂はすたすたと歩き始めた。
ちらりと美沙を見て、
「ごゆっくり」
と私に言った。
最後の桂の不意打ちを喰らって私は少々面食らったが、美沙の少し落ち込んだ姿を見て声を掛けた。
「お姉さんだったのか、上原先輩。」
美沙は頷いた。
「うん。おねえちゃん、私より歌上手かったのに辞めちゃって……」
私は美沙の頭に手を載せた。
「私、おにいちゃんがいたの。先輩と同じ年の。」
「えっ。」
「おにいちゃんは、河埜でない別の学校に行っていたの。それがあるとき……おねえちゃんの見ている前で交通事故に遭って……死んじゃったの」
そう言って美沙は啜り泣きを始めた。
「おねえちゃん、それから歌わなくなったの。で、うちのパパとママの間もおかしくなって……」
美沙は涙を流し、嗚咽しながら言った。
なるほど、それが離婚のきっかけになったわけか。
私は、栄子が桂を最初弟のように可愛がっていたことを思い出した。桂は、栄子にとっては死んだ弟の代わりだったのかもしれない。ということは、私は美沙にとって死んだ兄の投影なのかもしれない。
私は美沙を見た。
「おにいさんは……私に似ていたのかい?」
それを聞いて、涙まみれの美沙は私を不思議そうに見上げた。
「……ううん、あんまり似てない。」
「そうか。」
私は再び俯き両手で目を抑えている美沙の頭を撫でた。
そうしているうちに、美沙はやや落ち着いてきた。
「パパとママ、やっぱり河埜の生徒会にいたんだよ。」
「えっ」
私は驚いた。
「パパが体育委員長で、ママが文化委員長。それで大学に行ってからも付き合っていたんだって。それが……」
美沙は悲しそうに目を閉じた。
栄子にとっては、長谷部と結ばれることは、一種の代償的行為だったのかもしれない。弟としての桂。そして、長谷部と自分が破局した父母の関係をやり直し成功させることで、心の傷を癒そうとしたのかもしれない。
だが結果は恐るべきものだった。
過去は栄子の眼の前で完全に断絶したのだ。
運命が、自分の思い通りに動くことなどあるはずはないのだが。
私はそれがわかってはいたものの、栄子のためにほんの少しだけ運命も微笑んでやればよかったのにという気持ちがした。
私は、美沙の頭を抱いてしばらく暗闇の中で座っていた。美沙が、突然気付いたように、目を瞑って唇を私の方に向けた。私は、黙って美沙の唇を自分の唇で覆った。
月が、冴えていた。
文化祭の2日目は、特に問題もなく無事終了した。後夜祭も終り、片付けが始まった。私たち役員は総出でジャージ姿になり、焼却炉でゴミを燃やしまくった。
片付けが全て終わったのは午前2時だった。
私は、12号館のボード等の撤去に思ったより手間取り、部下たちと汗を拭きながらベンチに腰を下ろした。
すると、携帯電話にメールが来た。京子だ。どうやら、また何か問題が持ち上がったらしい。私は携帯電話をしまおうとした。
だが、何かが。
何かが私の心に引っかかった。
それは、前にも意識下に埋もれていたことだったが、何かはわからなかった。私は、京子のメールアドレスを見た。
私は、意識下に眠っていたものが何か、ようやくはっきりと理解した。
深夜。私たちは殆どが眠りについていた。勢堂も、桂も、井出も、桜子も、佐藤も、さゆりも、そして慶子さえも。
汚れたジャージ姿で疲れて泥のように眠っていた。
だが、私は起きていた。
興奮で眠ることができなかったのだ。
京子は、その細い体のどこにスタミナがあるのかと思えるほどだったが、生徒会室で事務の残りをしていた。
私は、生徒会室に入った。
「あら、荒巻くん。」
京子は驚いたように私を見た。
「寝ないの?」
「先輩こそ。」
京子は、コーヒーポットからコーヒーをカップに注いだ。
「荒巻くんも、飲む? さっき沸かしたばかりよ。」
「いえ、結構です。先輩、大丈夫ですかお体は。」
「私、結構スタミナあるのよ。マラソンはいつも一位。これくらいどうってことないわ。」
京子は、窓から校舎を見た。
「不思議ね、昨日まで文化祭やってたなんて。」
京子は、カップを両手で持ちながらコーヒーの湯気で顔を覆った。
「そうですね。」
私は頷いた。
「学校ももしかしたら助かりそうだし、今年の学園祭は大成功ね。」
日頃自画自賛などしない京子だが、大役を終えてさすがに気が緩んでいるようにも見えた。
「会長。」
私は、携帯電話を出した。
「これ、先輩のメールアドレスですよね。」
「……そうよ。それがどうかしたの?」
私は、手帳を出した。
「これは、文化副委員長が河埜の生徒で援助交際をしている者がいるという話をしていたので、私がネットで独自に調べたその者のメールアドレスです。」
二つのメールアドレスは、同じだった。
京子の表情が、突然強張った。コーヒーカップが床に落ち、割れた。
カップの白い破片の下から黒い液体が茶色の床に広がっていった。
「何で、こんなことをしたんです?」
私は譴責ではなく疑問のつもりで述べたが、京子はそうとらなかった。
「なんでですって?」
一瞬京子に修羅が宿ったようだった。
私は、そのときの京子の顔と同じ顔を、初日に見たのを思い出した。それは、栄子の表情と同じだった。
「そんなことあなたに関係ないでしょ!!」
だが、栄子と違うのは、京子はそう言ったすぐ後、自分の発言の間違いに気付いて指で口を覆った点だった。
「関係……あるよね。荒巻くんは副会長だし。」
だが、疑問の答えは既にわかりやすくそこにあったし、私はそれを知っていた。だから譴責と解釈されても仕方なかったのかもしれない。
「長谷部先輩のことですね。」
その名前を聞くと、京子は一瞬震え。
その後、ゆっくりと頷いた。
「高1の終り、長谷部会長と桂くんのことを知ったとき、驚くよりも悔しかった。ずっと前から、何となく分っていたから。だけど、それが自分の意識では認められなくて……。私も入学したときから長谷部先輩を、とても、とてもとても好きだったの。それで長谷部会長に言おうとしたの……桂くんとのことをバラすわ、それが嫌なら次の副会長にしてくれって私言おうとしたの。そうすることで私自分の踏みにじられた、裏切られた気持ちをなんとかしようと思ったの。あのときの私、どうかしてた。」
京子は机に両手を付いた。
「でも、私がそう言う前に、あの人は言ったわ。私を副会長にするって。私の方が桂くんよりも次期会長には相応しいって。あの人は私が思った以上の、素晴らしい人なの。凄い人なの。私なんかがどうこうできる人じゃなかったのよ!」
私は、京子に次に会長になれと言われたときのことを思い出した。
歴史は、もともと反復されるためにあるのだろうか。
京子は顔を歪め、泣き声で言った。
「あの人は卒業するときに言ったわ。あの講堂で。あの声で。桂くんを頼むって。だから私、桂くんを今年文化委員長にしたわ。上原先輩が電話で怒鳴り込んできたけど、私突っ張った。」
私の目の前にいるのは、生徒会長ではなく、一人の女だった。
「でも副会長になってから、私とっても虚しかった。好きとも言えない。あの人のことを他の誰にも言えない。あの人を見て、黙って座っているだけ。そんな気持ちでずっと過ごしていたの。そんな気持ち、荒巻くんわかるかなあ? わからないよね」
京子は見たこともないような寂しそうな目つきをして私を見た。
「ネットに入って、1回だけ援助交際したわ。」
京子は、自分を壊したかったのだろう。自分で自分を徹底的に汚し、否定することで、辛さから逃れたかったのだろう。
「でも、全然何の解決にもならなかった。私、ますます自分がダメになるのに気付いたの。だから1回で辞めたわ。」
京子は暗い顔をして言った。
私は、京子に聞いた。
「その1回だけですね?」
「ええ。相手からのメールはもう着信拒否したわ。」
「2ちゃんねるに、会長と関係があったと思える人物が書き込みをしていました。」
京子は唾を飲み込んだ。
「それ、私だってわかるのかしら?」
「私が幾つか検索キーを使って調べ、会長が書き込みした掲示板を探しあててみただけです。そこは、書き込み者による削除もできたはずです。学校のPCからでは不味いので、お帰りになったらすぐに出会い掲示板での書き込みを削除してください。」
「わかったわ。」
京子は頷いた。
だが、そう言って京子は暗い顔をして俯いた。
「私、学校辞めようかな。」
「何をおっしゃるんですか!」
私は色を成して言った。
「先輩、あと3ヶ月で卒業じゃないですか。これくらいどうということはありません。お気を強くもってください。」
それを聞いて、京子は少し普段の自分を取り戻したようだった。
「わかったわ、荒巻くん。どうもありがとう。」
京子は、涙を拭いて頷いた。
空が、白んで来た。月は、素早く流れる西の雲の中に隠れ、東の空の棚引く群雲を照らしながら、朝日が見えてきた。
「私、始発で家に帰るわ。それで、書き込みを削除してからすぐに戻ってくる。」
京子はジャージ姿のままで立ち上がった。
「着替えないんですか?」
「うん、このまま行くわ。」
京子は、手を差し出した。普段と違って、京都弁のアクセントが微妙に混じっているような気がした。
「本当にありがとう。そして、来年はあなたが引き継ぐのよ。」
朝焼けの中で、京子の細い手は白く映えていた。私は強く頷き、京子の手をしっかりと握った。
翌年の5月。
私は、生徒会室の会長席に座って書類を見ていた。
結論から言うと、学校は救われた。
11月以後、経済が好転し、株式市場は回復基調に向かった。柳川を始めとしたOBが学園の支援に向かい、銀行は理事の交代を条件に融資を認めた。
校長はそのまま任についたが、彼とその妻は理事から抜け、柳川をはじめ資金を出したOBたちが理事になった。つまり、経営陣は大幅に入れ替わった。
一旦は他の学校に行っていた生徒も、かなりの数が河埜に戻ってきた。桜子も、佐藤も帰ってきた。
京子は、推薦で慶応の経済学部に進んだ。桂は、中央の法学部に進んだ。勢堂は東海大に柔道の推薦で進み、井出は東工大に進んだ。桜子は成城大学の文学部に進んだ。
栄子は……早稲田の政経に進んだ。また東大に落ちたのだ。桂の話だと、まだしつこく長谷部にアプローチしているらしい。だが、桂への無言電話は文化祭の日以来ぱったり止んだようだ。
長谷部と桂の関係は、まだ続いている。
私は4月に生徒会長に選ばれ、副会長には同学年の佐藤を選んだ。普通は2年が副会長の職に就くのだが、敢えて実務に強い佐藤にもう1年依頼した。生徒委員長には牧田、文化委員長にはさゆり、書記長には藤原英太、体育委員長には下岡、会計委員長には坂田恵美を選任した。
そして……。
「会長、中学部の生徒委員の指名候補者リストをお持ちしました。」
取り澄ました顔で、美沙が書類を私の机の上に置いた。
美沙は、あれから生徒会によく顔を出すようになり、今年から役員の一人になっている。
「ああ。」
私はその書類に手を伸ばした。
すると、美沙は私の手の上に自分の小さい手を伸ばした。
「会長、日曜日、大丈夫ですよね?」
「ああ、多分。」
「うれしいっ! 楽しみにしてますから!」
受験勉強の合間だが、久しぶりにデートの約束をしていたのだ。
それを見ていたのか、生徒会室の外から
「歳よ。負けたのは歳だけなんだから」
というさゆりのぶつぶつ言う声が聞こえてくる。
「何言ってるんですか。」
という窘める(たしなめる)ような文化副委員長の春日美穂の声が、それに続いた。
私はその声に耳を背けながら、歴代日誌を手に取った。
去年の文化祭の2日目のページを開いた。
11/15日(晴れ)午前4時12分。
記録者:二条京子
学園祭は無事成功。学校も再建の道を歩むことが確定か。
すべてこの世は事もなし。
簡単な、極めて素っ気ない記述だ。
だが、その中にどれほどの出来事や思い出があったか、私はよく知っている。私が写真部を辞めたのは、記録による再現性というものの無意味さを思ってからのことだった。だが、京子の極めて簡単な記述によって、様々な思い出の糸が瞬間光芒の中で紡ぎ出され、私はそれが心の中で様々な速度と密度で巻かれ、浮き、踊っているのを感じた。
歴史は、文字の上にだけあるものではない。
永遠に秘密で終わることもある。
だが、歴史の一行は人の心の襞の様々な思い出の束を、常に呼び出す力を持っている。鍵のようなものだ。それは過去の呼び返しであったり、また過去の断絶であったり、未来への希望であったり絶望であったり現在への警告であったりする。
それでいいのだろう。
書かれたことと、人との対話の総体こそが、本当の歴史なのだ。
私は、歴代日誌の上に静かに今日の記録をつけた。
5/16(晴れ)午後4時32分
記録者:荒巻大輔
特記事項なし。平穏無事な一日だった。
このような書き込みが、過去何千回行われ、そしてこれから何万回行われることだろう。
私はペンを置き、帰り仕度をした後、コーヒーを飲みながら夕方の校庭でサッカーに興じる生徒たちを眺めた。
だが、そうやって時熟の中で時を刻むことを許されたのは、あまり長い間ではなかった。
「せんぱぁい」
美沙がカバンを持って、入り口のところで待っている。
「帰りましょ。」
私は、美沙に無理やり引っ張られるようにして生徒会室を出た。美沙は突然機関銃のように喋り始めた。
「今度の日曜日だけど、ねえ、渋谷にすごく可愛いケーキ屋さんができたの。そこのケーキがね。タルトプディングなんだけど、もう凄く美味しいみたいなの!うちのクラスの子や、声楽部の子にも評判なんだよ。ねえ、109寄った後、そこで食べよ、ね? あ、それからプリクラ!今度新しい機種が出たんだよ。それから、それから……!」
私は辺りに誰もいないのを素早く確かめて、美沙のよく動く唇を自分の唇でそっとふさいだ。
細かくなってきた夕陽の光を浴びながら、美沙は陶然として目を瞑った。
私も目を瞑った。
時が、また、ゆっくりと流れていくのを感じながら。
- 完 -