高校物理の実験のような気がずっとしていた。
シンゴさんの打球が右翼席へ鮮やかな放物線を描いていく。
僕はネクストバッターズサークルの白い円の中で
その打球の行く先をずっと見つめていた。
観客の歓声の中でも、
本当にいいスウィングで打たれた打球は
空気を切るようなびゅん、という音が
聞こえるような気がするのだ。
それはスウィングの音もそうだ。
僕たちは、スウィングの良し悪しはフォームではなく音で決める。
前の前の監督が警備会社の宣伝をしているボードに
ボールがぶつかり、跳ね返って右翼の観客席で
お客さんたちがボールを巡って言い争いをしている。
少し年配の黄色い服が、若い青い服に何か叫んでいる。
ああ、係員が止めに入った。
ボールは、どちらのものになるんだろう?
僕はシンゴさんを迎えるために立ち上がった。
すると、センターの発光掲示板にニュースが流れた。
デストロイヤーズがカーズを逆転した。
つまり、今シーズンの
僕たちのチームの自力優勝が危なくなったということだ。
そのニュースを見て、
三塁ベースからこちらに向かってくる
シンゴさんは一瞬で人相を変えた。
人のよい、ちょっと小学生みたいな間の抜けた笑い顔。
みんながほんの少しだけ垣間見ることができた
番長の笑顔が、また引き締まった怖い顔に変わった。
僕はシンゴさんに
「ナイスバッティング」と声を掛けたが、
シンゴさんはニコリともしなかった。
フィールドスタッフの女の子から球団のオレンジ色の
マスコットを受け取ったシンゴさんは、
それを黙ってスタンドに投げた。
マスコットは観客の頭や手に何度か跳ね返って、
座席の間の通路に落ちた。
ビールの売り子の甲高い声で「いかあっすかああ」
の呼び声が、何故か僕の耳に捉えられていた。
僕たち選手は、チームの優勝のためだけに1年を過ごしている。
たとえ一人一人の選手が基本的には自営業で、自分の都合が何より優先するとしても、建前はチームの優勝を第一としている。だが、それが建前だけではない選手も多い。
シンゴさんは少なくともそういう選手だ。
僕はバッターボックスに立った。
全部忘れろ。全部。
この打席。この球だけ考えればいい。
ボール。投手が投げる白いボールだけ考える。
ジャガーズの林投手がサインに頷く。
僕は彼の過去の配球を思い出し、今日の試合の配球データで
それを微妙に修正をしながら第一球を待つ。
シンゴさんの見事なホームランと、
チームの自力優勝消滅の可能性という心を奪われる事態が
二つも連続したためだろう。
僕のことを話すのを忘れていた。
大学から東京ティターンズに入って5年目。
ショートを守っている。
年棒は・・・
おっと、
余計なことをしているから第一球を見逃してしまった。
後にしよう。
大体僕は自分のことを語ることは小さいころから苦手だ。
他の人がするような自慢もあまりしたことがない。
僕は何なんだろう。
とりあえず今は、来たボールを打つ者でいい。
人の定義なんて結局はたわ言だ。
このセリフは高校の担任が言っていた言葉の中で
唯一気に入っているものだ。
第一球はカーブ。
6年目で高校のとき親が死んだ日に甲子園の夏の大会で
決勝ホームランを打った加納さんのミットに
ちょっと陰性の音を立てて吸い込まれたカーブ。
外角低めを上手くかすってストライク。
僕の左ひざはピクリとも動かなかった。
好きなコースだったのだが。
第一球はカーブ。
これはベンチで聞いたスコアラーのデータとも一致している。
ただ、シンゴさんのときは胸元ストレートから入ってきた。
僕が好きなコースだともわかっているはずだ。
失投?
林投手の動揺を計算に入れるべきだろう。
林投手の不機嫌そうな首振りが続く。
まだ二球目なのに。
僕はちらりとキャッチャーの加納さんを見る。
ふと視線が合って、気まずい思いがして、
僕は再び林投手の方を見た。
「サイン見たらあかんよミツ」
加納さんがぼそりと言うのが頭の後ろで聞こえる。
僕は、歓声の中で自分に必要な音や声が拾える
人の認識を不思議に思う。
林投手が振りかぶっている。
僕は打撃コーチの栗田さんの言葉を思い出す。
「林の背番号が見えたらチェンジアップ」
そう、林投手の癖は見破られている。
投球の初期座標(x(0),y(0),z(0))が、時間の推移によって
座標を変えて僕に近づいてくる。
時間を媒介変数にした関数が、それもほぼ直線に近い関数が、
座標系を回転させれば導関数がゼロに近づく関数が、
僕という点から発した直線と交点を結ぼうとして
値を切り結んでくる。
僕は立てていたバットを軽く前に振り出す。
目と腰と手首がボールを捉えている。
もしかしたら、コース的にはボールだったかもしれない。
「テイクバックは大きく」
なぜか小学校のときのクラブチームのコーチの声が耳に残ってる。
あの暑い夏のセミの音も伴奏になっている。
バットがボールを捉えた音は、なぜか聞こえなかった。
ボールを捉えた衝撃が、なぜか右手の土星丘と金星丘で
鮮明に触覚となって形になっている。
ボールは、シンゴさんのと同じくライトスタンドに消えた。
広義のスカトロジーは「糞便を通して享楽を追及する」という、「特殊な性癖」によって行われるモノ・行動である。勿論、知識も人間に享楽を与え得る物である以上、狭義のスカトロジーも広義のスカトロジー同様に、快楽主義的な欲求に基づく物であると考える向きもある。なお糞便愛好に関しては糞尿愛好症の項を参照されたし。
[編集] 生物学とスカトロジー
特定の動物を研究する上で、糞便や尿は、その生物を知るために欠く事の出来ない情報を含んでいる。食性から体機能、果ては習性や本能的な行動に到るまで、糞便から学べる物は多い。また医療分野においては、排泄物は健康状態を知る上で、身体表面の見た目上の色つやに次いでもっとも得やすく、また多くの事が判る資料である。古代生物学においては、既に死滅した生物の残した糞便の化石から、食性や習性などが判明している。
[編集] 人間心理とスカトロジー
人間にとって糞便や尿は、日常的に目にする物であると共に、衛生面から見て決して好意的には語られない物であるが、人格形成においては、幼児期の最も基本的な社会性の教育課程である排泄訓練を通して、個人の秘密や主体性の確立といった成長を遂げる。
個人や自我という概念は、他人と自身の間にある種の意識面における敷居を設け、自分だけの秘密を持つ事から始まるが、排泄行為とは、排泄物を個室にこもって出し、自分で処理(水洗便所においては、排水する事で下水などに流す作業)する事で、世間一般の社会から自分の排泄物を隠す作業(儀式)に他ならない。故にこれらの行為を通じて、人は世間に対して、一定の秘密を持つ事になる。結果、排泄訓練教程を終えた児童は、等しく自己と他人の存在を意識し、自我とその他の間に境界を築き始める。
その一方で、排泄行為やそれら生理現象によって派生する事態は性別の区別無く、性的な発育段階においては様々な偶発的事件により、性的興奮を覚える切っ掛けになる事も多く、自身の放尿や排泄行為に性的な快感を覚える者や、他人のこれら行為に性的興奮を催す者も少なくは無い。特に排泄行為は最もプライバシー上で他人に侵される事の厭われる物であるため、ある種の支配欲の変形として、他人のこれら行為を見たがる者もある。
[編集] 社会学とスカトロジー
糞便にまつわる文化・芸術面での活動は、しばしば「不潔で下賎な物」とされるが、人格形成において排泄行為の及ぼす影響から鑑みれば、決して軽んじる事が出来ない。中には感情面での激情を、糞便の意外性を持って表現せしめる芸術活動も存在し、またこれら傾向は文学や、もっと大衆的な漫画の表現上においても見出す事が出来る。
[編集] 文化人類学・民俗学とスカトロジー
糞尿の…というより、それらの処理に関しては、様々な文化圏において、多種多様な方法が存在する。現代の日本においては、これら糞尿は水洗便所をもって社会から隔離され、人目に触れないように処分される地域も多いが、一部地域では汚水升に溜めた物を専用の車両を使って回収し、処分場に運搬している。また各家庭で浄化槽を配置し、それらの設備を使って各戸で細菌により処理させている所も多い。しかし近代までは、これら屎尿は貴重な農耕肥料としての資源として扱われ、江戸時代においては金銭で売買される事もあった。ちなみに屎尿にも等級があり、最上等は武家屋敷のもの、最下等は牢屋のものであったという。
今日の先進国と名の付く国々では、食糧生産にこれら人間の屎尿をあまり用いなくなった事情から、軒並み人糞の価値は廃棄物扱いだが、場所によっては家畜や水産養殖の飼料として、トイレをそれらの施設に併設する所もある。
経済発展のバロメーターとしても捉える事が出来るが、地域の気候風土によっては、他地域で取られている処分方法が用いられない事もあり、それらの扱いにおける差異も含めて、便所という設備を地域性に絡めて研究する者も多い。特に便所という施設に於いては、地域性が色濃く出る事もあり、便所を見れば国民性や社会の情勢が判ると云う人もある程だ。
伊達にディープ・ワンズの血は引いていない!
凍てつく黒きハリ湖で、ただ独りイタカの群れと向かい会う粟田宴会部長!
まさかあそこでDr.マシリトが召喚されるとは!
おっと、これ以上はネタバレになってしまいますねw