「ええ、では今週の生徒会執行会議を始めます」
会長の二条京子がメガネの銀縁に少し手をかざして言った。
京子は細身で色が抜けるように白い。
小さいころに京都にいたということで、
微かに京都のアクセントが混じることがある。
整った顔立ちと相俟って公家の娘という感じだった。
だが、私としては余り好きではない。
目が。
目の光が冷たいからだ。
人を見下すために生まれてきたような感じがする。
文化委員長の桂章吾が発言を求めた。
「文化祭の件なんだけど」
桂は二条と同じ3年で、大きな、少し悲しそうな目が印象的だ。見るからに華奢で大人しそうだ。
なぜか蕎麦が好きで、学校の帰りにいつも
鳥羽屋という蕎麦屋にいる姿が目撃されている。
彼は前任者とはあまり仲がいいというわけではなかった。
虐めに虐め抜かれ、会長の二条に抜擢されて
やっとこの地位に就いたわけで、すなわち二条には頭が上がらない。
桂を見て思い出すのは、人形だ。
それも、悲しそうな顔をした人形。
「今年の文化祭は11月13日と14日なんだけど、
文化委員会としては既に始動しています。各小委員会の報告は9月中に上げて、予算を作成します。それで、学校側から聞いたんだけど、今年はその・・・経済的な不況ということもあって、総体的な予算は大分削られるような感じなんだ。」
桂は、大きな悲しそうな目を更に悲しそうにして言った。
体育委員長の勢堂が、色黒の顔の中で唯一白い目の中の黒目で
桂を凝視した。
「体育祭の予算も、削られるってことかそりゃ」
ぶっきらぼうに剃ったばかりの青い坊主頭を掻いて言った。
柔道部の副部長もやっている。
「納得できんなそれは」
勢堂が強面で桂を睨んだので、桂は少しひるんだ。
「ぼ、ぼくに言われても・・・」
桂は二条の方に視線を向けた。
生徒会副会長の佐藤静馬がひそひそと二条に耳打ちをしている。
佐藤は2年で、新聞部の副部長も兼任している。
ぬめっとした起伏のない顔立ちで、
ヘビのような生気のない目をしている。
「何ひそひそやってるんだ」
勢堂が佐藤に言った。
「いえ、ちょっと」
佐藤は静かに座りなおした。
「お前この件で何か聞いてる?」
勢堂は生徒委員長の井出に向き直った。
井出は中肉中背で、青白い顔をしていて、
何を考えているかわからない油断のならない目をしている。
生徒の風紀等を取り締まったり、朝礼等の規律をするのが
生徒委員の役目だが、それを統率しているわけだ。
つまり、私荒巻大輔の上司、ということになる。
やはり3年だ。
「いや、知らない。
でも矢部先生の話では今学校は結構大変らしいよ。」
私は自分のクラスの友人のことを思い出した。
夏休み中のことだ。
夜、電話が掛かってきた。
「あらまきぃ」
沙代子は、泣き声だった。
「どうしたんだい、三沢。」
私は静かな声で聞いた。
「わたし、わたし学校辞めなきゃいけないの・・・」
「どうして?」
「お・・・お父さんの会社潰れちゃって。
それでもう・・・学校の学費払えないって。
公立に行けって。」
「そうか・・・」
沙代子の消え入るような声が、耳から離れない。
私は黙ってテーブルの上の書類を見返した。
勢堂は言った。
「文化祭の予算が削られるなら
体育祭の予算だって削られるだろうさ。
そして来年度のクラブの予算もな。
そこんところどうなんだよ。
大体予算については4月に大体のところを会長とかが
学校側からある程度聞いていたはずだろ?
それがどうしていきなりこの9月に事態が変わるんだよ?」
いや。
私は実は本当のことを知っているのだ。
私の父親は銀行に勤めている。
仕事は融資だ。
その関係でとあることを聞いたのだ。
つまり、私が行っているこの学校、河埜学園は、
現在破産の危機にあるということを。
一族経営であった河埜学園の経営は乱脈を極めている
だけでなく、昨今の不況と株価の下落によって、
学園の資産はほぼ債務超過状態に陥っているということ
らしい。
落日の学園。
おそらく来年度、この学校は存在していないだろう。
沙代子の泣き声を聞いた翌々日に、
父からそのことを聞いた私は驚愕した。
転校については、父はまだ何も考えていないようだった。
私としても、できれば来年、
つまり3年になるまではこの学校にいたかった。
中学から5年。
この学校には愛着もある。
私が陰鬱な思考に陥っているとき、
いきなり素っ頓狂な高い声を上げた者がいる。
書記長の黛桜子だ。
「お金がないんだったら、私たちで出せばいいでしょう?」
ぱっちりした目をした、苦労しらずのお嬢様だ。
だが、二条と違って成金の娘で、
少々ネジが外れているところがある。
金銭感覚も少々ずれていて、
体育教員室の近くの卓球台ですこし遊んだときに
交わした会話で、
一月の小遣いは30万だとあっけらかんと言われたときは、
私はむしろ反感を覚えるよりも
笑ってしまい。
サーブをものの見事に外してしまったことをよく覚えている。
私は、二条を見た。
二条の銀縁メガネの中の冷たそうな目は相変わらずだ。
ふと目が合った。
彼女の意思的な視線を私は逸らした。
だが彼女は私の視線の中の何かを見逃さなかったようだ。
「荒巻くん」
「は」
「あなたはどう思うの?」
私は、一瞬テーブルの上で
少し風に揺れている書類を見つめながら考えた。
知っていることを今言うべきか言わないべきか。
言うべきではない。
言えば私の父親が漏らしたということがわかり、
父の信用問題にもなるかもしれない。
銀行というのは秘密を重んじるところだ。
それは私が小さいころからよく父に教えられてきたことだった。
秘密を漏らせば、父の将来はなく、
家族にとってもあまりいいことはないかもしれない。
私はすばやく計算し、ここでの態度を決定した。
「減額の具体的数字について、
学校側から報告があったのでしょうか?」
私は桂に向いた。
「そ、それはまだ・・・」
「ではその具体的数字を得ないと駄目だと思います。
その額に応じて我々の態度も変わってくるのではないでしょうか。
大きな行事に影響がある程度の額なのかどうか、
ということですが」
そう言って下役でまだ2年生である私は一礼した。
その日の会議は、
私が行った発言で尻すぼみのような感じになり、
学校側から報告を得てから、
という形で幕を閉じた。
私はカバンを持って生徒会室を出た。
「荒巻くん」
呼び止められた声の方角に振り向いた。
文化副委員長の室生さゆりだ。
黒目が大きい。
豊かでつやのある髪の毛を背中まで伸ばしている。
いつか昼休みに、彼女が友人に
そこまで伸ばすのに、
どれくらい掛かったのかと聞かれた場面に
出くわしたことがある。
小学生のころからあまり切ったことはない、
という彼女の問いに友人たちは感嘆していた。
私と同じ2年で、隣のクラスにいる。
「今日は忙しいの?」
「少々用が。何か用かい?」
「ううん。いいの」
そう言って、背を向けた。
私は、何故か重力に惹かれたように、
「ああ、あの」
と声をその背中に掛けてしまった。
さゆりはくるりと私の方を向いた。
まるで待ち構えていたかのように。
「なんですか、生徒副委員長様」
「どのような用事だい?」
「あのね」
「ん」
「実は私ネットで知ったんだけど、
どうやらうちの学校で援助交際やってる子がいるみたいなの」
「ほう」
「これって、荒巻くんの担当でしょ?」
「・・・職務は校内の風紀等に関することだから。
校外のことは管轄外だよ。」
面倒に巻き込まれるのはゴメンだ、
という思考が働いたわけではない。
だが、下手に動けば私の行動によって
彼女たちに重大な影響を及ぼすことになってしまう。
どうみても私の職分の範囲内にあるものとは認められなかった。
「先生に言うのはどうだろうか?」
「言ったらすぐに退学になっちゃうでしょ。
私たちが調べて穏便に止めるように言うのが
生徒同士の誼(よしみ)ってものじゃないかしら。」
確かにそれもそうだ。
私とさゆりはPC室で問題のhpを見た。
出会い系サイトで河埜学園の生徒らしき者が援助交際をしている
という垂れ込みが書かれてあった2chのスレッドを見た。
219 :名無しさん :03/09/04 00:00
恵比寿駅でこの前援交した子にすれ違ったよ。
なんか向こうは気付かなかったみたいだけど。
セーラー服が似合ってたよ〜
「で、この後共学のKなのかなーって思ったという
書き込みが続くわけ」
さゆりは髪を掻きあげて言った。
なるほど。
これがうちの誰かというわけか。
私はさゆりに言った。
「だが、これ以上の手がかりはないようだね。
それとも何か当てがあるのかい?」
さゆりは、大きな黒目をくりくりさせて言った。
「うん、何人か派手に遊んでいる子の中のうちの一人だと
思うんだ」
「確証がないのではこれ以上私には何もできないようだ」
私は口を尖らせるさゆりを後にして、PC室を出た。
私は13号館の2階のPC室を出て、
白い建物を振り返った。
私が河埜中学に入学したとき、
13号館はまだ建設中だった。
まだ小さかった私は、中がどうなっているのか知りたくて、
日曜日にテニス部の練習があったときの合間に
こっそり中に忍び込んでみたりしたものだ。
13号館は学校の北の端にある。
私のクラスがある8号館は、学校の西側にある。
その途中の通路を歩いていると、
中等部の生徒たちが家路につくのを認めた。
詰襟の男子とセーラー服の女子たちが、
三々五々、桜の木が立つ校門の方に向かっている。
その姿を見ながら私は物思いに耽った。
消えゆく学園。
彼らは、一体どこに行くのだろうか。
そして自分はどうすればいいのだろう。
滝ツボへ落ちる寸前、突然体の向きが変わるような
感覚を私は抱いていた。
私はまだ自分の心に整理がつかず、なんとなく帰る気にならなかった。
生徒会室に寄ってみることにした。
生徒会室では、会長の京子が
会計委員長の橘慶子と話をしていた。
「あら、荒巻くん」
京子は私を認めて呼びかけてきた。
眼鏡が夕陽に一瞬反射した後、京子の眼が優しく見えた。
「失礼します、会長」
「どうしたの?」
私はそう聞かれて困惑した。
特に来た理由はないのだ。
当面の問題を考えるのに、
ここが相応しい場所かもしれないと思っただけだ。
だが、京子に対しては
何か理由をつける必要がある。
「いえ、歴代日誌でも少し見ようかと思って」
歴代日誌というのは、
河埜学園生徒会の名物だ。
ここ40年間の生徒会の日誌が漏れなく保存され、
毎日書き足されている。
「そう?」
私は慶子からロッカーの鍵を貰い、
自分が入学した当初の生徒会日誌を
読み返してみることにした。
ふと開いたページを見ると、前の生徒会長が中3のときに書いた記録が眼を引いた。
6月12日(木)曇り
記録者:長谷部忠志
中等部のスタッフを強化せよとの三田会長の言いつけで、
2年生を3人ばかりスカウトしてきた。二条京子、勢堂大悟、
桂章吾の3人だ。二条は去年の文化祭でクラスを
よくまとめていて、出展も見るべきものがあったし、
成績もよかったので眼をつけていた。
勢堂は中2だが柔道部の清原部長から最近面白い奴がいると言うので話をしたところ、生徒会の仕事にも興味がありそうなのでスカウトすることにした。
桂は俺が入っている化学部の後輩で、真面目なところが
気に入ったのでやはり生徒会にもいれてみようと話を
持ちかけた。最初は渋っていたが、先輩の命令という形で
入れてしまった。
その記述を読んで、私は涼やかな佇まいで仕事をしている
会長の姿を見直した。
「そうか、中2から生徒会に関わっていたのか」
私は自分が生徒会に入ったきっかけを想起した。
あれは、高1の文化祭の後だった。
体育館の椅子の片付けを偶々私がやっていた姿を見て、
生徒会の顧問だった矢部先生が私を生徒会に
誘ったのだ。
「荒巻、お前生徒会入ってみないか?」
汗を拭きながらパイプ椅子をやっと片付けた私は、
先生の真剣そうな顔を見て少々意外な思いがした。
先生は、数学の授業のときでも、
滅多にあんな顔をしなかった。
「私がですか?」
「そうだ。お前は人の見えないところで
黙々と何かをやるところがあるし、礼儀正しい。
この時期に生徒会に入ってみるのはお前にとって
いい経験だと思うが」
「・・・」
正直その時は少々迷ったものだ。
テニス部は中2のときに辞めていた。
故障があったし、
何よりも受験が大事だと思っていたからだ。
写真部も既に辞めていた。
「勉強に支障は出ませんか?」
「生徒会に入っていると、大学推薦枠にも入りやすいし、
何より生徒会の先輩たちの進学率はかなりいいぞ」
確かに生徒会役員はみな成績は悪くない。
そういった人々に囲まれていれば、
いろいろいい影響も受けるのかもしれない。
私は、むしろ打算的な思惑で生徒会に入ったのだ。
私には人を支配しようとか、
管理しようとかいう欲求はない。
他の役員がどういう思いで生徒会をやっているかは知らないが、私がここにいる確固とした動機付けというのは存在しない。
ただ、受験に少しは有利かなどという
個人的思惑があっただけだ。
京子の顔がこちらに向いて、私と視線が合った。
「どうしたの荒巻くん」
私はまたもや口実を探す破目になった。
「会長は中2のときから生徒会に参加してるんですね」
それを聞いて、京子はふと眉を動かして言った。
「ええ、そうね。前会長の長谷部先輩から誘われて。
まさか会長になるなんて思っても見なかったわ」
そう言って、また書類を読み始めた。
「先輩は受験の方は?」
「慶応の推薦狙いよ。まあ多分大丈夫でしょう」
「いいなあ」
「生徒会の会長はここ20年間浪人はいないわ」
この先輩にも先輩がいて、
やはりその先輩にも先輩がいる。
どこまでも、辿っていく過去。
人と人の縁。
その連鎖が彼女の代で断ち切れるわけだ。
私は、再び書類を読み始めた京子の横顔を見つめた。
やはり会長の京子にだけは、
本当のことを報せておくべきなのかもしれない。
私がこの学園の未来についての真実を言おうと
口を開こうとしたとき、京子がいきなり顔を上げて
私に言った。
「あ、荒巻くん。あなた来年、会長やってみない?」
京子が言ったことが余りに意外だったので、
私は自分の言葉を飲み込んだ。
京子の言葉を噛み締めて理解するのに、
少し時間が必要だった。
「意外な・・・ことをおっしゃるんですね。
副会長の佐藤くんはどうするんですか?」
私は京子に尋ねた。
京子は、書類に眼を走らせながら言った。
「静馬はトップになる力量ではないわ。
彼はナンバー2で輝くタイプの人。
もう一期副会長をやらせてあなたを補佐させても
いいかもしれないわ」
「会長は去年は副会長をされてましたよね」
「ええそうね。長谷部先輩の下でね」
そこまで言うと京子は私をじっと見た。
「長谷部先輩は私が後任として適任と認めたから私を指名した。私はあなたを適任だと思うから指名する。それだけよ」
「私が適任だと思う理由は何ですか?」
「あなたはトップに立つ者としての資質があるわ。
落ち着いているし、判断も的確。
責任を負えば負うほど力を発揮するタイプだと思う」
私は、京子にそこまで買ってもらっているとは
思いもしなかった。
そのとき、少し前に生徒会室から出て行った会計委員長の橘慶子が戻ってきた。
京子は私にこの件はここで一旦中断、と言うような
目配せをして、慶子を見た。
「どうだったの?」
「キントが言ってたんだけど、
去年の60%でなんとかしろってよ。どうする会長」
慶子の声は引きつっていた。
「そんな」
京子も色を成して言った。
「文化祭やるなって言ってるようなもんじゃない!」
事情を知っていた私は、その遣り取りを聞いてさしたる意外感は無かった。
ただ、遠くの方で氷山が崩れるときのような静かな滅亡の足音を聞いただけだ。
私は決断した。
私は自分の責任を果たす義務がある。
私益を問題にする時ではない。
「会長、実はそのことでお話があります」
私は、会長の京子と会計委員長の慶子の前で、
この学校の未来について語った。
株価の下落、一族による乱脈経営。
そして債務超過状態。
銀行が既にこの学園を見放していること。
それを聞くと、慶子は真っ青になった。
「うそ・・・」
だが、京子は眼を鋭く輝かせた。
「そう・・・面白いじゃない。それ、本当のことよね?」
私は強く頷いた。
「この学校が、来年には無くなるってこと?」
「父の話では、誰も引き取り手は現れそうにないとのことです。
ならば無くなるしかないでしょう。
私も来年には転校を考えるようにしています」
翌日。
会長の京子、文化委員長の桂、会計委員長の慶子と私は
校長の河埜純一郎氏と会見を持った。
河埜校長は、豊かな長髪と細い切れ長の眼を持った、
50代前半の細身の美男子だった。
若いころはさぞ遊んだのだろうという噂も多い。
女子生徒の中には河埜校長のファンも少なくはない。
「・・・」
私たちが学校再建はほぼ不可能になっている事実に
ついて言及すると、
校長は私たちを不機嫌そうに見つめた。
「確かに・・・そういった事情はある。」
「ではそれはいつ公開するのですか?」
「・・・明日の朝礼ででも発表するはずだった。
生徒たちの行く末については、私のできる範囲で引き受けを
お願いする予定だった」
校長は手を後ろに組んで校庭を見た。
「まさかこんなことになるとは、思ってもみなかったんだ。
株があそこまで下がるとは」
校長は頭を振った。
「すまない」
校長の辛そうな表情に私たちは一瞬押し黙った。
だが、京子はその沈黙の帳を一気に押し開いた。
「校長先生、それで相談なのですが、
今回の文化祭で、生徒会がOBに働きかけて、
足りない分の予算について寄付を呼びかけたいのですが、
宜しいでしょうか?」
校長はそれを聞くと目を大きく見開いて、
少し涙目になって頷いた。
「ああ、是非そうしてもらえればありがたい。
迷惑をかけて本当に悪かった」
京子は校長の涙には注意を割かれることはなく、
事務的な口調で続けた。
「OBの方々の名簿をお貸しいただければ、
あとは生徒会の方で直接寄付をお願いいたします。
この件について学校のバックアップがあるということ
だけご確認いただければ結構です」
「わかった」
その言葉を聞いて、京子は立ち上がった。
「ありがとうございます、校長先生」
そう言って一礼した後、京子は私たちを率い、
校長室に校長を一人残したまま立ち去った。
京子が背をまっすぐに伸ばして本館を出ていく。
脇に桂がおどおどとついていく。
慶子はその後をすこし小さい歩幅でついていく。
私は2年生として一番後ろを歩く。
「校長先生は」
京子がふいに言った。
「お気の毒ね」
慶子が言った。
「へえ、京子でもそんな風に思うんだ?」
「奥さんがああだとね」
京子が冷たい口調で言った。
河埜校長の妻は結構派手で、それがあまり好ましくないと
思う人たちもいるようだ。
京子は学校が傾いたのには校長の妻の濫費があると
思っているのかもしれなかった。
その次の日から私たちは手分けをしてOBたちに寄付を
頼んで回ることになった。
目標額は200万円。
私はOBの名簿の中から歴代の生徒会役員を探し出して
アプローチすることにした。
方法はそう複雑ではない。
インターネットで当該人物の卒業後の足取りを
確かめる。そしてhp等で人的関係や趣味等を読み取り、
最後に歴代日誌の記述から当時のことについて
下調べをする。
こういったことを頭に入れた上で、
電話し、会って話をして寄付を求めるのだ。
無論経済的に余裕がある者を選択することは
言うまでもない。
一日に訪ねられるのは、せいぜい2人がいいところだ。
私が印象に残った先輩のことを書いてみよう。
20年前に卒業した柳川先輩は、3年次に生徒会長をして
一橋大学に進み、現在とあるコンピュータ会社の取締役を
している。私は港区にある彼の会社を学生服姿で訪問した。
少し太り気味の彼は、校長の署名捺印入りの文書を読み、
女子社員が運んできたコーヒーを私に勧めながら、
万感の思いを込めて言った。
「そうか・・・河埜学園なくなっちゃうのか」
彼は眼の前のカップの中にコーヒークリームがくるくると回転して溶けていく様を黙って見ていた。
「大体、負債ってどのくらいなのかな?」
彼は思い出したように私に聞いた。
「さあ・・・かなりの額だと聞いていますが」
「ほう。債務超過はどのくらい?」
「あまりわかりません」
「・・・なんというかさ、株式を公開したこともあって、
お金はないことはないんだよね。だから場合によっては
私が学校の負債の債務超過分の幾分か負担しても
いいくらいなんだが」
私は彼を見直した。
「そうなんですか」
「ああ。だが、額にもよるね」
私は、コーヒーカップを右手で揺らしながら考えた。
このようなことに私が介入するのは権限の範囲外だ。
後で会長なり校長に伝えて判断を仰げばよいだろう。
「私としては、学校の負債についてのことはわかりかねます。
ただ、先輩にそのような意思があったことを校長にお伝えすることはできると思います」
「ああ、そうか」
私は自分の職分を果たすことにした。
「先輩は3年次に生徒会長をされてますよね?」
「ああ、そうだ懐かしいね。だから生徒会役員の君が来たというわけだろ?」
「はい、本当は会長がご挨拶に伺うべきなのですが、やはりみな分担してお願いしている都合上、分不相応とは思いましたが私がお願いに伺ったわけです」
「ははは。まあそういう仰々しい名分主義は苦手さ」
「先輩のときは生徒会の担当は橋本先生でしたよね」
「そうそう、橋ポン元気かい?」
「ええ、今は中学の担任をされてます。先輩のときと同様、
やはりみんなに橋ポンと呼ばれてますよ」
「そうか、あの仇名って俺のクラスからついたんだよな」
「そうなんですか?」
「ああ、高1の英語の授業だったかな。今はアメリカに行っちゃったけど菊地って女がいてさ。そいつが先生のことをいきなり橋ポンとかいい始めてさ。橋ポン最初はムっとしてたんだけど慣れちゃってさ。自分から自分のこと橋ポンなんていいはじめたときは調子に乗るなとか思ったよ」
そう言ったあと、彼は少し遠くを見るかのような目つきをして言った。
「もしかしたら菊地、橋ポンのことが好きだったのかもしれないな」
彼の意識が現在に戻ってくるのを見計らって、私は柳川にあるものを見せた。
「おっ、こりゃあ・・・」
柳川は20年前の歴代日誌を見て目を見開いた。
「なつかしいなあ・・・そうか、まだ続いてたんだな歴代日誌」
彼は自らの在校時代の10冊程度の在校時の日誌を手にとってぱらぱらとめくっていた。
「うわっ、これ俺だよ・・・」
彼は、自らの書き込みを見て感極まったのか思わず目頭を押さえた。
「そうだった、そうだったよ。
この時予算の問題で学校側と対立してさあ。
俺が辞めるかどうかとかそんな問題にまでなったんだよ」
彼はしきりに自分で何度も頷きながら日誌を見返していた。
「結局、日誌によればそれは学校側が折れたはずでしたね?」
私は、予め読んでおいた歴代日誌のその前後の部分を思い出して言った。
「うん・・・そうなんだが、ここには書いていないことだけど、ある先生が辞めたのさ、この問題で」
「えっ・・・」
私はその部分の日誌しか読んでいなかったので、
それは初めて聞く情報だった。
「その先生、ここではA先生としておくが、
ある業者から金を貰っていたみたいでね。
それがそもそもの問題の発端だったのさ・・・」
柳川はコーヒーを啜りながら言った。
そのとき、先ほどの女子社員が入ってきて、
「江戸川さんが参りましたが」
と言った。
柳川は、
「後にしてくれ。待たせておいてくれ」
と言った後、再び私の方を向いた。
「俺と、副会長の如月ってこれがまた性格のキツい女でさ
二人でA先生の家に行って直談判したんだよ」
性格のキツい女、という言葉を聞いて、
私は京子のことをふと思い出した。
「如月が一方的にA先生を叱り付けるように話してさ。
A先生は中年の女性の先生だったんだけど、
泣き出してしまってね。
俺はそのときオロオロして
どうすればいいのかわからなかったよ。」
顔の皺を深くする柳川を見て、
会ったときに感じた柳川の若さが、
一瞬のうちに消えたように思えた。
彼の時間が過去に遡及していくにつれて
現在の彼が老いていくようなそんな奇妙な
時空意識に私は囚われた。
「翌日、結局A先生は辞めた。
如月は・・・」
そこで彼は一旦言葉を止めた。
そして私に顔を向けて言った。
「今は私の妻だ」
柳川は結局50万円の寄付を生徒会にしてくれることになった。
彼が自分がいたころの歴代日誌をコピーしたいと言ったので、彼の分はそこに置いて翌日取りに行ったものだ。
私が柳川から50万円の寄付を貰ったと聞いた
生徒会執行役員たちは目を丸くして驚いた。
勢堂は、
「大輔、お前妙な小才利くなあ」
と、悪口だか誉め言葉だかわからない評価を下しながら、
私の肩を乱暴に何度か叩いた。
だが、私が柳川から寄付を得た事情を話している際、
彼とその妻のことに話題が移ったときだった。
京子が眉をひそめたのを私は見逃さなかった。
私の視線に気付いた京子は、
「へえ、いい話ね」
と、誤魔化すかのように言った。
周りの3年生を見ると、少し空気の密度が
変化していることに私は気付いた。
井出は天井を見つめ、勢堂は咳払いをした。
そして桂はおどおどとしながらあたりを見回していた。
慶子はじっと京子を見ていた。
私が沈黙の殻の中に逃避していると、書記長の黛桜子が生徒会室に入ってきた。
「私、60万入れるよ」
「えっ」
役員たちは一様に驚いた。
「私の小遣い今月分全部出すよ。後、貯金からも30万出す」
それを聞いて、京子は眉を顰めた。
「それは……」
飽くまでもOBから寄付を募るというのが趣旨で、生徒会役員個人の犠牲によって賄うというのは京子の意図するところではなかった。もっとも、彼女にとっては桜子の発言権の拡大を危惧するところがあったのかもしれない。
私は言った。
「いえ、会長、いいではありませんか。学園祭費の補填は焦眉の急です。もしOBの皆さんからの集まりが悪ければ、書記長の寄付を受け取るということで、一旦は受け取ってみては。」
桜子の家が富裕なことを知っていた他の役員たちも、私の意見に賛成した。
「……」
京子は一旦沈黙してから、結局桜子の寄付を受け入れることにした。
その日の帰り、私は桜子と一緒に門を出た。
「あたしさあ」
「はい」
「明後日には転校しちゃうんだよね」
「えっ」
「だからこれが河埜にできる最後のことだと思って」
「そうだったんですか……」
「でも結局最後まで京子は京子だったね」
「ええ……」
私は、桜子の寄付が指導権を狙ってのことと勘違いしたかのような京子の態度を思い出した。
「あのさ」
「はい」
「生徒会室に入ったとき、何か雰囲気が変だったんだけど、何かあったの?」
「……」
私は一瞬沈黙してから、事情を話した。
「そう……。そうかもね。そうだろうね」
「?」
「ん……まあ私はもうこの学校を去るから言うけど、実は京子って前の生徒会長の長谷部先輩のことかなり好きだったんだよ」
私はそれを聞いて耳を疑った。
「だから会長と副会長のカップルのことを聞いて、
京子ショックだったんじゃないかな。」
「そうだったんですか……」
私が生徒会役員となって生徒会室に頻繁に出入りするようになったのは、今年からだ。中3と高1のときは、下役の下役として大して仕事もしていなかったし、生徒会室にもあまり来なかった。大きな集まりのときに出向いて参加し、意見を述べたりした程度だ。
「長谷部先輩が、京子とか桂くんとか勢堂くんとかを中2のときにスカウトして、手塩にかけてあの連中を育てあげてきたんだよ」
桜子と私は坂を下りながら、何人かの中学生を追い抜かした。
「長谷部先輩がスカウトをしたという話は、歴代日誌に書いてありましたね」
私は桜子のペースに合わせながら歩いた。
桜子の横顔の表情は、少し硬い。
「随分古いのを読んだのね。そう、そうなのよ。それで、京子は長谷部先輩をとても尊敬し、それが愛情に変わっていったわけ。実際に京子は去年副会長をやって、二人はいいコンビだったわ。けど……」
私たちは、信号の前で止まった。
私は桜子の次の言葉を待った。
黄色いスポーツカータイプのベンツが、私たちの前を通り過ぎた。
「言って、いいのかなあ」
桜子は暗い顔をして下を向いた。
私の知る限り、桜子があんな顔をするのは初めてだった。
信号が、青に変わった。
周りの河埜の生徒は、次々と信号を渡っていく。だが、私たち二人はその場に立ち止まって、時が満ちるのを待っていた。やがて、信号が再び赤に変わり、周りに人が少なくなると、桜子は私の方を振り向いて厳しい目をして言った。
「絶対に、他の人に言ったら駄目よ」
「はい」
私は、深く頷いた。
「長谷部先輩が好きだったのは、京子ではなかったの」
その答は予め予測できたとは言え、改めて言葉にされると極めて厳粛な感じを私に与えた。だが、次の言葉は私の心に大きな衝撃を与えた。
「長谷部先輩が好きだったのは、文化委員長の桂くんだったのよ」
私はそのときの桜子の言葉のトーン、大きさ、声質、そういったものを今でもはっきりと覚えていて、今でも昨日のことのように思い出すことができる。目の前を自転車で突っ切って行った小学生の青いジャンパー。黒いコールテンのズボン。
「ちょっと待ってください」
私は桜子の言ったことが一瞬では飲み込めず、説明を求めた。
「ちょっと……ちょっと待ってください。桂先輩って・・・男じゃないですか」
「だからそういうことよ」
桜子は右手にある果物屋の巨峰にちらりと目を向けて言った。
「そういうことなの」
それから桜子は、私の方を向いて言った。
「去年の文化委員長の上原先輩が、どれだけ桂くんのこと
虐めたかあなたも知ってるでしょ?」
私は、去年はそれほど生徒会室に出入りしていたわけではないが、上原栄子が副委員長の桂を虐めあげているという噂は聞いたことがある。
事実去年の文化祭の後片付けで、栄子がブチ切れて
桂の頬を殴って怒鳴りつけたということもあった。
それを私は目の前で見ていた。
「上原先輩も、長谷部先輩のこと好きだったのよ」
「じゃあなんで」
私は尋ねた。
「なんで会長は桂先輩のことを引き立てて文化委員長にしたんですか?」
「・・・荒巻くんはわからないか、
そういう女の気持ちというか」
私は沈黙せざるを得なかった。
あなただって男の気持ちがわかるわけではないでしょうと
言おうとしたわけではない。
そう言われて、私は想像を巡らしていたのだ。
「自分が好きな人が好きだった相手を保護することで、
いい位置に立つか、それとも自己満足を得る」
言葉にすると身もフタもないが、
誇り高い京子の性質からするとそういった動機なのだろう。
「そんなことは歴代日誌には書いてありませんでしたよ」
「書くわけないじゃない」
桜子は笑いながら言った。
そうだ。
前に訪ねたOBの柳川が女教師を追放した話も歴代日誌には書かれてはいなかった。
本当の歴史とは、文字ではない。
人が話す言葉だ。
あの分厚い、何百冊にもなる歴代日誌の裏に、
どれほどの隠された歴史があるのか。
そのとき、私はふと背中に氷柱のようなものを感じた。